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一夜明け、台風が過ぎ去った空はすっかり晴れて雲一つない。またじりじり煩い太陽の声が、蝉の鳴き声と一緒に聴こえてくるようになった。
「じゃあ光くん、勝行のことよろしく頼むよ。身体は無理しないようにね」
慌ただしく東京へと戻って行った修行を空港の屋上で見送り、光はもらった給料袋をもう一度見つめた。
雨の中飛び出した時、相羽家の机に置きっぱなしにしたものだ。本当に使ってもいいか悩みつつ、もう一度これを手渡しながら父親に「よろしく」と言われ、光は思わず首を縦に振ってしまった。
光の生活費や学費は、これから成人するまで全部相羽家が出してくれるらしい。バイトしなくても生きていけるようになった代わりに、勝行の衣食住を世話する家政夫の仕事だけは契約継続との約束だった。
修行も息子に似て、返事をろくに待たずに物事を決定していく。茫然としていた光には、何かを言い返す暇など皆無だった。
ボディガード兼運転手の黒服男一人と飲み物やアイスクリームを買いに行っていた勝行が、いつまでもフェンスに貼りついている光の元に戻ってくる。
空港なんて初めて来たから、もうちょっとだけここに居たい。
そんなわがままを言ってみたら、「いいよ、俺も飛行機飛ぶところ見たい。アイス食べながら休憩しよう」と楽しそうに笑った。
勝行がくれた乳白色のクリームをひと舐めしたら、冷たくて甘ったるい味がする。まるで目の前の男のようだ。
「……なあ、俺は結局お前の何になればいいわけ?」
「え?」
不思議そうに聞き返す勝行の手には、並々と注がれた黒いアイスコーヒー。子どもみたいな見た目に反し、彼はブラック無糖が好きらしい。
「きゅ……給料くれる友だちなんて、おかしいだろ」
「ああ、そんなこと。気にしないのに」
「ちったあ気にしろ、てめえの財布ガバガバかよ」
「やっぱり、友だちを金で買うっていうのは変なのかなあ。名案だと思ったのに。人身売買って言ったらよくないかもしれないけど、これは合意の元だし、健全な人助けだろ」
は?
そんな発想でアレを言ってたのか――?
光にしてみれば、勝行の方がよっぽど常識を知る頭のいい人間だと思っていたのだが、この男、どう考えても時々おかしなことを言うし、その行動は案外突拍子もない。おまけに金遣いが異常に荒い。こんな状態でよくもまあ、親と別居してまでこの街に残ると言えたものだ。
きっと修行はこの息子を放置プレイしすぎて生活面が色々ヤバイと認識したのだろう。だから自分と一緒にさえいればなんとかなると見込んで、投資してくれたに違いない。
だったら期待に応えて男らしく、責務を果たしてやるか――。
光はもらった給料袋をくしゃりとポケットにしまい込んだ。
(俺の親父は、どうせもう帰ってこねえだろうし)
青い機体の飛行機が轟音を上げて空へと飛び立っていく。次の東京行きだろうか。それとも、源次とリンが今いる街に行ける飛行機か。
「俺も空、飛びたいなあ」
唐突に勝行がぽつりと呟いた。飲んでいたアイスコーヒーのストローを口から離し、空を仰ぐ。
「飛行機、好きなのか」
「ううん、あれに乗りたいとか、そういうのじゃなくて」
楽しそうに空に手を伸ばすと、紙コップの中で小さな氷たちがじゃらりと音を立てた。
「歌とか音楽って、空気みたいにどこまでも流れていくだろ。俺たちは図体が無駄にあって、家とか学校とか、ちっぽけな檻の中で、壁にぶつかって動けなくてもがいてるけどさ。いつか歌に乗って、どこまでも空を流れて行って……たとえば誰も知らない町で、ただ好きな音楽に浸っているだけの生活とか、してみたい」
「ああ……」
「一人では絶対、ここから出られないと思ってたんだ。こんなの、馬鹿みたいなただの願望だろって。でも……諦めないでよかった」
「なんで?」
「不思議な話。光が一緒に居てくれたら、傍でピアノ弾いて、俺と一緒に歌い続けてくれたら、なんかもう無敵っていうか……なんでもできる気がして。だから俺は、夢と自由を手に入れるために、お前が欲しくて。だから、お金はそれを手に入れるための、ただの代償に過ぎない。俺の全財産、お前にあげるよ。だってお前は、友だちより金の方が欲しいんだろ?」
「そっ……それは……言葉のアヤっていうか……ていうかそんなの、覚えてたのかよ」
「ふふっ、俺けっこう根に持つタイプだから」
思わず怖気づけそうになる事を楽し気に笑って言いながら、勝行は「光はやっぱり優しいね」と続けた。
「優しい……?」
「なんだかんだいって俺の私生活までしっかり面倒みてくれるし。遊びにも付き合ってくれるし。『嫁にもらって』って言ってた和泉さんの話、今ならものすごく頷ける。一家に一台、イマニシヒカルって感じ」
「なんだそれ」
半端に褒められ恥ずかしくなった光は、顔を背けて溶けかけたアイスを一気に食べ尽くした。口元に零れたクリームをぺろりと舐めて回収するも、間髪入れずに背後の黒服男からティッシュが渡される。ぎょっとしつつも、そういえばこんな人いた、と思い出し、恐る恐るティッシュを受け取った。
「あはは、子どもみたい。ってか、まだ子どもだよな俺もお前も」
「そーだよ。子どもに子ども任せて置いていくなんて何考えてんだろうな、てめえの親父さん」
「そういう光のお父さんだって、子どもほったらかして帰ってこないんだろ。おあいこだよ」
「……まーな」
「光は皆に信頼されてるんだよ。言っただろ? お前が一緒にいてくれたら、俺はなんでもできるって」
「なんでものレベルがおかしいんだよ」
勝行の大言壮語やその自信は、一体どこから来るのだろうか。本当に自分でいいのかと時折不安になる。
だがそうやって誰かに必要とされるのは、悪い気がしない。
生きていてもいいよと、他人に言ってもらえる気がして。――金銭以上に欲しいと願っていた「達成感」と「誰かの温もり」は、少なくとも勝行の隣にさえいれば得られるような気がする。
「俺たちは二人で一つの翼になるんだ。一人ではできなかったことが、なんでもできるようになる。そうやって二人で一つの何かを作ったり、世界を広げたり」
「二人で、ひとつ……?」
「ああ。そういう名前のバンドを作って、俺たちの言いたいことは全部音楽に詰め込んでさ。自由に生きても誰にも文句言われないぐらいの、すごい奴になろう。二人で」
――二人で。
フェンスに凭れながら、すぐ隣の耳元で話すその言葉が嬉しくてくすぐったい。
「ああ。そうだな」
少しばかり低い位置にいる勝行はちょうど女の子――リンぐらいの高さ。体つき的にも、大して変わらない。光はそんな勝行をふわりと抱きしめながら、ふにと唇を重ねた。
「――!!!!!!!!!?!?!???」
完全に硬直した勝行は、腰をぬかしてズルズルとフェンス越しに尻もちをついた。
「なっ……な、な……なにす……っ」
顔を真っ赤にして震える勝行を見て、あれ……と光は首を傾げた。
「二人でひとつって、こういう意味じゃねーの」
「ちが、違う! ばかやろう! お……俺まだ女の子ともキスしたことなかったのに!」
「何いってんの、大げさな。バンドってやつは、音楽作る家族ってお前、言ってたじゃねーか。だからキスしたんだけど。お前も親父さんとキスぐらいするだろ」
「はあ? するわけないだろそんなもん!」
「え、なんでしないの? お前んち、おかしいんじゃね?」
「おっ……おかしいのはお前だ!」
「ええ、そんなはずねえ。キスは家族の挨拶だ挨拶。源次だって知ってるぞ」
「いやマジかよなんだそれ……」
「よろしくな、勝行。ところでどっちが兄貴? 俺か?」
りんごみたいに真っ赤な顔をして、「俺のファーストキスが……!」と頭を抱える勝行が妙に間抜けで可愛い。光は気づけばずっと笑い続けていた。そんな風に声を出して笑ったのは、本当に久しぶりのことだった。
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