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    二 「大丈夫か?」  遠くだった声が近くなって、それが確かにパパの声だとわかって、ミイナは目を開けた。  病院のベッドは学校の保健室みたいな匂いがしたし、真っ白い壁はテレビドラマの中の一コマみたいに思えた。 「もう、大丈夫だよ。身体もとりあえず怪我はないし重い荷物につぶれた左足も骨折だけで手術の心配もなく後は時間の問題だってさ、良かったね」 「足、あたしの足は大丈夫なのね?無くなったりしてないのね?」  身体を起こそうとするとそこら中に痛みが走って、顔が引きつりながらも包帯を巻いた頭を起こして自分の左足の存在を確かめたミイナ。  そこには、今まで見て来た暗闇に捉えられた左足ではなく、白い包帯と器具につられている足が見えた。  ああ、よかった。あたし走れる。  美似菜は息を吐いてパパの顔を見て聞いた。 「ママは?ママはどうしたの?」  パパの表情が曇るのがわかった。 「ママは、ちょっと困ったことになっちゃって、しばらくの間ここにお見舞いにも来られないんだ」  仕事の話なのかな?ミイナは何故か、それ以上聞くことができないでいる自分を不思議に思いながら、ベッドに横になった。 「けど、パパが何でもするから大丈夫だからね、ミイナは何も心配しないで自分の身体の事だけ考えていて」  パパはにっこり笑うと、机からケーキの箱を手に取ると 「ミイナの大好きなケーキ買ってきたからな、二人で食べよう」  紙のお皿にケーキを乗せると、ベッドのボタンを押してミイナの身体を起こして渡した。 「ラブリーのラズベリースペシャル!よく覚えてたね、あたしの大好きなケーキ!」  ケーキは特別な味がして、口に含むと柔らかく静かに溶けてなくなってしまう。  突然ミイナは、軋む身体中の痛みを感じるほど大きな声で泣いた。  深く大きな痛みが、身体ではない心のどこかに残っていることを知っていた。  何かを失った悲しみなのか、安心した気持ちなのかわからなかったけれど、心に空いたその穴が一杯になるまであふれる涙は止まらなかった。  パパはミイナを抱いて一緒に涙を流していた。なぜなのか、どうしてなのか、わからないけれど何も聞かずに何も言わずに泣いた。  それから一週間の間、ママは姿を現さなかったし、それを何故と聞けない自分に不思議と納得している.ミイナだった。  食事は美味しく食べられたし、パパと冗談を言って笑う事も出来た。  ただ、ママの事を聞くのがとても怖かった。  何かが起こっていることは明らかだったし、パパの笑顔の裏にある不安ははっきりと感じられたから。 「若い人は本当に羨ましいね」  病院の先生はミイナの足の状態を診ると、笑った。 「しばらくの間は松葉杖は必要だけど、それもきっとすぐにとれるようになりそうだね」  退院の日にちが迫っていた。  ミイナは少しだけ、怖かった。  退院する、それは今までパパと向き合ってこなかったママの話をする時だと思ったから。  ミイナの足はブーツのような硬いギプスをつけて立っても痛まない程度に回復していた。  そして、退院の日がやって来た。  ママはやっぱり姿を現さなかった。  パパと先生や看護師さんにお礼を言って、病棟を後にしてエレベーターに乗った時、パパは一階のボタンを押さないで、二つ下の階を押した。  何故だか、わかっていた気がしてミイナは黙ったまま、二つ下の階の扉が開くのを待った。 「ここに、ママがいるの?」  ミイナがいた整形外科の病棟とは少し空気も緊張感も違うこのフロアは、何だろうと思うとエレベーターホールの正面にかかれている文字を見つめた。 『 ICU 』  下に集中治療室と書いてある。 「ミイナに言わなくちゃいけない事があるんだ。身体中に怪我しているミイナに心配させたくなくて隠していたけど、ママは今ここにいるんだ。意識はない」  苦痛に歪んだパパの表情は、とても可愛そうに思えた。  そうか、言わないで一生懸命隠していたんだ。  そう思うと、美味しい食事をとりゆっくり眠れて身体の回復だけ考えていた自分に罪悪感すら覚える。  手を洗い消毒薬を付けて白い手術着みたいな服を着て、手袋をはめ名前を記入する。  看護師さんがパパの姿をみて、軽く首を振る。 「ママは意識がないまま、もう何日も経つんだ。丁度、ミイナが意識を取り戻して安心した矢先の出来事だった」  ベッドに横たわったママは今にも起きて笑いそうな表情をしていた。 「ママ」  マスクの下の口が乾いて声が途切れた。 「呼びかけてあげていいそうだよ」  パパがそう言って 「ママ。ミイナ退院したよ!もう元気になったんだよ!」  大きな声でママの耳元に顔を近づけた。  それからパパはママがどういう状態で、発見されたか話始めた。  ミイナが事故にあって、一回意識を取り戻した時ママはとても喜んでパパに電話をしてきた。  また目を閉じたミイナだけど、お医者さんは多分大丈夫だろうと言った事をパパに伝えてミイナの着替えやらを家に取りに戻った。  パパは病院に駆けつけてママが来るのを、待っていた。しかし、暗くなってもママは現れなかったし携帯にも連絡できなかった。  不安の中家に戻ってパパはママが倒れているのを見つけて、もう一度病院に戻る事になった。  ママは脳に損傷があって手術をしたが、まだとても危険な状態で集中治療室に今もいる。  ミイナが回復して、ママに呼びかけさえすれば、元気な声を聞かせればきっと目を覚ますに違いないと思って、パパは一生懸命に二人を看病した。  話しながら辛い表情は硬くなり、苦痛にも感じられる。 「ごめんなさい」  言葉につまった。  どれだけ、辛かっただろうと思うとミイナはパパに抱きついて 「きっとあたしのせいだね、あたしが心配かけちゃったからだ。パパにもごめんね」  どうしてこんな事になったんだろう、考えながら目を閉じるとミイナの頭の中に一つの映像が流れた。  人の行き交う雑踏の中誰もが先を急いでいる街、そして美味しそうな匂いとコーヒーの香りが入り混じった店内。 「ごめんね」と言ったママの顔。それからそれから、ミクの嬉しそうな横顔。  ミイナは立ち上がり、パパに向かう。 「ママを連れ戻してくる」  パパは不思議な顔でミイナを見つめる。  ギプスの足はもうさほど痛くなかった。走る事はお医者さんに止められていたけれど、白い服もキャップも手袋もマスクも走りながら取った。  病院を出ると、止まっていたタクシーに飛び乗り家に向かう。  暗く電気のついていない我が家は、寒そうに凍えている気がした。  自分の部屋に向かい、ドアを開ける。  そうして、電気をつけると、声をあげた。 「ママを返して!ミク!」  鏡の向こう側は、明るくなった自分の部屋を映しているだけだったけど、ミイナは知っていた。  どうすれば、ママが帰って来るのかを。
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