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   四  あれからもう一年が経とうとしているなんて、本当に信じられない。  ラズベリースペシャルを買いに行って、そのあとあたしはどんな風に過ごしてきたんだろう。  悲しい涙を流したんだろうか。痛い想いをしたんだろうか。何一つ思い出せない。  でも、今こうして再び誕生日を迎えている。一年前と何も変わらないように思えるのに、あの日と同じように時間は過ぎてゆくのに。    部屋の鏡の前でミクが立っていた。腕を組んで何でもない事のように言った。 「ラズベリースペシャル、ホールで買ってきてあるよ」 「おう~それはすごいね」 「思い出したりしない?」 「何を?」 「事故のこと」 「しないよ!ラズベリー食べたくて食べたくて我慢できないよ」 「本当に?」 「ミクは食べたくないの?」  少しの間があって 「食べたいけど」 「けど?なに?言いたいことは言う!」  ミクのそういうところがイラつくし、あたしとまったく違うところだと思う。 「あの時、わたしがグズグズしてたせいでミイナ事故にあったんだって思ってる」  ミクが自分のせいだって思ってるだろうってことは感じてたし、ミクの性格からして心の中でくすぶっているだろう事も想像ついていた。  ただ、言葉にすぐに出せるなんて今までのミクにはなかったかもしれない。ミクの心の中はいつでも想像できるけど言葉に出させるまで何回も何回も問い続けなくちゃいけなかったから。  ミイナは何かが変わったのかな、とミイナは思う。 「違うよ、どんな事しててもそういう運命だったんだと思う。きっと」  ああ、あたしはミクとおんなじなのかもしれない。  今の言葉は自分自身に言い聞かせてきた言葉だ。  まだ消化しきれてないのに。まるですべてがわかった大人みたいな言葉。  いつだって、あの時こうしていればあそこでこう言っていれば、って頭の中でぐるぐるまわっているのに。  ミクは笑顔にならない。キュッと口元は結んだまま。  それでも過去には戻れない。自分にできることは無いのだから。 「行こう!ケーキだべよう!」  ミイナは鏡の前から部屋を出て、ダイニングキッチンに向かう。 「ひょ~、豪勢だね~」  テーブルの上には特上のお寿司がどんと置かれていて、脇にラズベリーの乗ったタルトケーキが並んでいる。ノンアルコールの赤ワイン、これはぶどうジュースに近いけど最高に美味しい。ワイングラスに注いで大人の気分を味わえる。   パパもママもじっと窓の外を眺めながら、いつもの席に座っている。  外は薄墨色の夜の気配が漂っていて、遠くの方に気の早い電飾の綺麗なビルが見える。 「まだ、クリスマスには一か月以上あるのにね」  ミイナはパパとママに声をかけた。  テーブルの上にはちゃんとお花まで飾ってある。  ミクが暗い表情のまま席に着いた。 「いつまで、暗い顔してるの?お誕生日なんだから笑ったら?」  聞こえているのかいないのか、表情は変わらない。  せっかくのご馳走も、そんな顔で食べたって美味しくないじゃない。  ミイナは、ムカついた気持ちを何とか落ち着かせるのに深呼吸をする。 「一年なんて」  ママが口を開いた。少しも楽しそうじゃない。 「長すぎる」  もう一度ママがゆっくり言葉にした。 「でも、お誕生日なんだしちゃんとお祝いしてあげなくちゃ」  パパがママの肩に手を置いてほほ笑んだ。 「どんな事しててもそういう運命だったってミイナ言ってた」  またミクは暗い顔。誰も反応がない。 (だからさっきからそう言ってたじゃない)ミイナは心の中で叫んだ。  ミイナはテーブルに座ってじっと目の前のサラダを見つめるパパとママを眺めた。 「ミイナと話したいよ」  パパが呟く。 「うん、いつもみたいにラズベリー食べたいって」  ミクが話始めるのを遮るようにママが泣きだした。 「お願いだから、ミイナにあやまらせて!いつでもいつでも、ミイナがしっかりしてるからって頼り切ってたわたしが悪いんだわ。親としてもっとちゃんとあの子のこと考えてあげてればよかったのに」  涙で一杯になったママの悲しそうな顔はミイナの胸を締め付ける。  どうしちゃったの?ママ。 「そんな事はないよ。ぼくだって同じようなものさ。この一年どんなに後悔した事だろう。だけど、どんなに悔やんでももとには戻らない。これから先を考えてゆくしかないんだ、ぼくらが支えてあげなくちゃいけないんだ」  パパも泣いている。なんで?どうしたの? 「でも、本当にミイナは毎日わたしと話してるのよ。事故に合う前と同じように毎朝毎朝」  ミクが瞳をうるませて、声を震わせている。ママもパパも泣いたまま、席を立つと窓の外を眺めながら寄り添った。  そうよ、みんなどうしちゃったの?  早く、お寿司食べようよ、ケーキ食べようよ。  ミイナは自分の席に座った。 「ミイナ」  ママが座っている席に置いてあるお皿を自分のお皿の上に片づける。  え?取り分けてくれないの?  ミイナはママの顔を見つめた。涙は止まらないまま。  いつだって、『ミイナの好きなのどうぞ』って言ってニコニコ笑ってくれていたのに。  そうしていつだって、みんなで楽しくケーキに蝋燭を立てて、わたしが消して。  楽しい幸せなハッピーバースデー。年に一度の自分が主役のパーティ。  大好きな人たちに囲まれて幸せな時間を共有する。たくさん話したいこと胸の奥にしまってあった事、いっぱいいっぱい聞いてもらう。笑ったりたしなめられたり、こつんとゲンコツもあったっけ。  それでも心から幸せを感じて、ああ生きてるって幸せな事だなぁって、思うんだ。  お野菜をたくさん食べてね、そういっていつでもみんなの皿にサラダを取り分けてくれるママ。 ミイナは皿にサラダも取り分けないママを見て不思議に思った。  そして固まって、声が出なくなった。  なんでママは自分のお皿にお寿司もサラダも取り分けたりしたんだろう。なんで楽しいパーティなのに泣いてるの?  どうしてミクは毎日あたしと話してるってパパに言ったの?  当たり前の事、いつもの事、言葉にするような事じゃない。  暗い顔したバースディ、一度だってそんな事なかったじゃない。 「ミク!パパ!ママ!」  声を上げて立ち上がる。  誰も答えたりしない、陰鬱な表情は変わらない。  パパやママはじっとテーブルの上を見つめている。  誰もあたしの声に耳を貸そうとしない。  あたしは悲しがってなんかいないよ、楽しくバースディを祝おうよ。  みんなせっかく揃ってご馳走の前に座っているんだから。  ミイナは声を出そうとしたけれど、声にならない。  一年、ってママが言っていた。長すぎる、とも言った。  一年前のあの日、誕生日のあの日。  あの日事故に合って、あたしはどうしたんだろう?  あれからどうしたのだろう。  わからないわからない。  あの事故から後の事、記憶にないもの。パパやママとおしゃべりしたことや何もかも思い出せない。  ううん、思い出がないんだ。  ここにいるあたしは、なに?まぼろし?  頭の中が真っ白になってゆく。  何も考えられない。  今いるこのあたしは、いったい誰なんだろう。  世界はどうなっちゃってるんだろう。  かすかによみがえって来るあの時、遠くから聞こえていた救急車の音。 ミイナの耳に残っているたくさんの音。思い出したくない雑音。  ざわめく人ごみ。  何かの機械音。暗闇から音が絶えず聞こえていた。頭の中をたくさんの音が通り過ぎた。  人の声も聞こえた、男の人の声。そう、大丈夫かって言っていた。  最後に見たあたしの足。何か大きな塊に挟まれて動けなかった。見たんじゃない目に映った情景、それが何なのかどうしたのか、覚えていない。思い出せない。  確かにあたしは事故にあったんだ。  それからそれから、どうした?  思い出そうと強く願うと、暗闇が広がって目の前の幸せな家族や大好きないつもあって当然の部屋が暗くなってゆく。  いやだいやだ、ここから離れたくない。  大好きなみんなと離れたくない。  ミイナの背後に暗闇が押し寄せているのがわかった。  身体が引っ張られて闇の中に落ちて行ってしまいそうだ。  待って、何か思い出さなくちゃ。何か、忘れている事がある。  頭が痛くなって、身体中がきしんでいる。  右足が暗闇の中に埋もれた。  あ、でも待って。  あたしは自分の足がどうなっているか知っていた。  もう走れないって事もわかっていた。  右足から暗闇が這い上がって来る。  待って。  あたしは大好きなこの部屋から出てゆきたくないし、家族とも離れたくないんだ。  一緒にいたいんだ。  どうか、誰か助けて。  その時ふいに、思い出した。真っ白になっていた頭の中に映像が流れた。  あたしが話した相手はミクだけじゃない。ミクだけじゃなかった。  ミイナは身体を包む引力から、力一杯自分を引きはがした。  まだあたしには、思い出す術がある。  行こう、早く暗闇に飲み込まれる前に。  ミイナは部屋を飛び出した。そしてきしむ身体を精一杯引きずりながら歩いた。  歩いているのが不思議だったけれど、ミイナの右足はまだちゃんとあって普通に歩く事も出来た。  背中から暗闇が少しずつ広がって追いかけてくるのがわかる。  急がなくちゃ!  早足になって、そして走っていた。  マンションの前の道路、家路を急ぐ人たちが歩いている。スピードをあげて通り過ぎる車たちが生き物のように見える。  ずんずんスピードを上げて走った、力一杯。身体が壊れてもいい、ミイナはそう思って走った。  あの場所に行きさえすれば、何かが始まる。  そう確信していたから。
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