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その後、母親の制止を無視して女の子はリセンに一緒に遊ぼう、と言ってきた。歳のかけ離れた女の子と遊ぶなど経験したこともないリセンは一度それを断ったが、女の子がどうしてもと言って聞かないので付き合うことになった。
結局たっぷり三時間ほど会話をしたり様々な場所を回ったりして、気づけばそれなりの時間になってしまっていた。さすがにということで、ここで別れることとなった。
「またね、おにぃちゃん!」
「ああ、またな」
いつまでも手を勢いよく振る女の子に、こちらも手を振り返す。
そして母親は一礼すると、名残惜しそうにしている女の子の手を引いて去っていった。
そこでリセンも、もともと外出の目的が遅い昼食を取りに外出しただけだったことを思い出し、ゆっくりと宿に戻っていった。
だが幼い子供と遊ぶのはリセンにとっても新鮮で楽しめた。子供は無垢な心を持っているだけに素直で、接しやすい。思ったことをすぐ口にしてくれるので対応もしやすいし、なにより自分といることで楽しそうにしてくれていたのも役に立てているようで嬉しかった。今まで、一緒にいて楽しそうにしてもらったことなどほとんどないリセンにとって、とても良い経験となったのだった。
しかし、だからこそリセンは浮かれていた。
リセンがちょうど屋台に並べられた珍しそうな宝石を見ていると、どこからともなく男達が現れた。その男達はリセンを囲うような形で集まると、リセンを完全に包囲してしまった。見た目だけで言えばリセンと接触しているのはほんの三人ほどだが、人ごみにうまく紛れるようにしてもう五人ほど仲間がおり、完全にリセンを逃がさないように囲んでいた。
「なあ、あんた竜の化身……だよな?」
その男達の中の一人が両手を広げながらリセンに近づいてくる。貧相な服装に身を包んだ、やけに肌の黒い男だった。
「……そうだが、何か用か?」
「ちょっと困っていることがあって手伝ってほしいことがあるんだけどなぁ、ついてきてもらってもいいか?」
リセンは悩んだ。この男たちはどうしても怪しかった。このままついていけば、おそらくだが何かよからぬことに巻き込まれるに違いないと思ったのだ。
しかし同時に、リセンにはこのように相手から囲まれた経験などほとんどないのだ。だからこの男達が本当に困っているのか、ただ面白半分にリセンに近づいてきたのか判断できなかった。それに先ほどの女の子のこともあり、人の役に立つということに嬉しさを感じていたリセンは、普段では絶対に拒否するこのような言葉に真剣に耳を傾けてしまっていた。
そしてなにより、リセンは浮かれていた。いつもの正常な判断をできないほど浮かれていたのだ。
「……わかった。案内してくれ」
リセンが少しの間をおいてそう答えると男は意外だというように驚き、後頭部に頭をもっていって何度かさすった。
「……たすかるぜ。それじゃついてきてくれ」
男はうなずくと大通りの端を歩き始めた。リセンもその男について歩いていく。男の他の仲間も、少し距離をあけているがついてきていた。
そのまま少し歩き、突然裏路地に入るとまた少し歩いた。そして完全に大通りを歩く大勢の人々達と切り離れたほどのところまで来ると、男は足を止めた。綺麗な大通りと違いごみが四散していたり、心なしか異臭も漂っているようだった。
後ろを振り返ると男の仲間達も追いついてきていた。
「……それで、お前たちは何に困っているんだ?」
完全に全員が集まったところで、誰も口を開かなかったので仕方なくリセンから切り出した。
「ああ、悪いな竜の化身さん。困ってるって言っちまったけど、あれ嘘なんだ」
「……そうか。だったらなんで俺をこんな場所に連れてきたんだ?」
「なんだ、まだ気づいていないのか? 俺たちはお前の金を狙ってるんだぜ」
もちろん、この男たちがリセンに何かを手伝ってもらうために声をかけたわけではないということには、先導する男が路地裏に入ったあたりから気づいていた。それにそのころから後ろからついてくる男達の空気が一気に攻撃的になったのだ。おそらく獲物をうまくおびき寄せたことに興奮したのだろう。戦場に何度もたつリセンは自分に向けられる殺意などに敏感になり、そういったことにすぐに気づけるようになってしまったのだ。
「まぁ、そういうことだから竜の化身さん、ここは潔く金を置いてってくれねぇか? あれだけ戦場で人をいっぱい殺してんだ。褒美もいっぱい貰ってるんだろ?」
どうやらこちらが抵抗の意を示せば力づくでも金を奪うつもりのようだった。リセンはポケットに手を突っ込み、今の持ち金を手に伝わる感触だけで確認する。
およそ金貨二枚と銀貨六枚。安い食事であれば五食分はもつ程の金だった。リセンからすれば確かにそれほどでもない金だが、身なりが貧乏なこの男達にとってはそれなりの額なのだろう。
だがこの金を渡す気にはなれなかった。
「……悪いが金を置いて行くことはできない。お前たちこそ諦めて俺を解放してくれ」
そもそも金を儲けようと思うのならば働けばいいのだ。ここは王都。辺境の村に比べると人口も桁違いで、だからこそ職も簡単に見つかるはずなのだ。実際、貧しい家に生まれた者が王都で住み込みで働いている店も少なくない。それをこのように人を脅して楽して金を手に入れようとしているこの男達が許せなかった。
それに何より、この男達はリセンがまだ竜の力を戦場で使い恐れられていたころには、このようにリセンに金を強請るようなことはしてこなかった。だがリセンの竜の力が失われたと噂が広まった今、この男達はこうして集団でリセンを取り囲んでいる。
つまり、リセンが楽に襲えるようになったと知って金を強請ってきたのだ。
この男達の行動から、おそらくこのような行動を何度も行ってきたのだろう。そしておそらく対象は力を持たぬもの。本来一番弱い者の気持ちを知っておかねばならぬ者たちが、同じ弱い者から金を奪い、その者の人生を狂わせているのだ。
そんなこの男達に金を渡すほど、リセンはお人好しではなかった。
「そうか……残念だな。だったら無理やりにでも金を奪わせてもらうぜ……おいてめぇら、やっちまうぞ!」
そして男達はじりじりとリセンに近寄ってくる。さすがに刃物を使う者はおらず、拳を握って構えている。
しかしそれでもリセンは焦らなかった。男達の行動をじっと観察するだけで、構えようともしない。そんなリセンを見た男達はさらにリセンとの距離を近づける。
それでもなお、リセンは焦らなかった。何故なら、こんな男達など、竜の力を使えばたやすく片付けてしまえるからだ。
そんな余裕なリセンに、ついに男の一人が殴りかかっていった。
「うらぁぁっ!」
それを見たリセンは竜の力のひとつ、肌の硬化を発動させようとした。
しかしその瞬間、リセンは自分が今置かれている本当の状況を把握できていなかったことに気づく。
リセンは思い出した。今、自分は竜の力を封印しているのだと。
竜の力を使おうと思えば、自分で制しているだけなのでいくらでも使える。しかしここで使えばこれまでの努力がすべて水の泡になる。再びすれ違う人々から怯えた目で見られ、行きつけの酒場でも居づらくなってしまう。なによりヴェレナも、再び最初に出会った時のような冷たい態度に戻ってしまうだろう。またあの頃の生活に戻るのは嫌だった。
そもそも、ここは戦場でもなく王都だ。そして相手は兵士ではなく一般の国民だ。そんな相手に竜の力を使うことなどできるはずもない。それこそこの男たちのような、本来味方である弱い者を一方的に蹂躙することになってしまうからだ。
だからこそ、リセンはすんでのところで竜の力の発動を抑えた。そしてその瞬間、リセンの左頬に勢いよく握りこぶしが飛来した。
リセンの体はいとも簡単に吹っ飛び、リセンは体を半回転しながら地面に倒れた。
「ッツ!」
リセンは何年も受けてこなかった痛みに、思わず今の状況も忘れてひらすら殴られた頬と地面に転んだ際に打った頭の部分を手でおさえ続けた。そこへ男達は次々と追い打ちをかける。
腹が、足が、腕が、顔が。全身が男達の足に打たれ、そのたびに鋭い痛みが走る。本能的に頭を抱えて丸くなろうとするが、それすらも許してもらえず、腕は踏みつけられ背中を打たれ自然と仰け反りの形になる。
耳に届くのは男たちの嬉々とした声と、無意識のうちに発していた自分の悲鳴だった。その悲鳴は、戦場でリセンに切り裂かれ絶命していく兵士たちのものとよく似ていた。
しだいに全身が心臓の鼓動に合わせるように痛みを発し始め、今どこが痛めつけられているのかもわからなくなっていった。
「お前らそこまでだ。竜の化身を殺したりしたらさすがにバレちまう。目的の金は奪えたんだ。ずらかるぞ!」
目を閉じ耳だけで周囲の情報を掴んでいたリセンにそんな声が届く。おそらくリセンに最初に声をかけた男だ。その合図とともに男達の打撃は終止符を打った。しかしそれでもリセンの体は痛みを訴え続けている。
そして多数の足音が遠ざかっていく。ようやく終わったか、とリセンがほっとしたのも束の間、何者かに胸ぐらをつかまれ、強引に壁に叩きつけられた。
「ぐぁっ……?」
思わず目を開けると、先ほどの男の集団の一人がこちらに刃物を突き付けていた。
「お、おい! 何してるんだよ」
立ち去ろうとしていた男達も気づいたのだろう。慌てて戻ってくる。
「これ以上はやめとけって」
「……うるせえ! こんなもんじゃこいつを許せねえんだ。こいつは俺の家族を殺したんだ!」
男は叫ぶ。一層リセンを掴む手に力を入れて、まるでリセンを壁で押しつぶそうとしているかのように。
「俺はナトゥーアの国の出身でな……五年前までは家族みんなで暮らしてた。だが五年前ここスクレーブに敗北し、国境の村に住んでいた俺の家族は戦に巻き込まれ皆殺しにされた! お前が戦に介入しなければ、お前が竜の力なんて使わなければナトゥーアは敗北しなかった! そして俺の家族は死ななかった!」
その言葉にリセンの心臓がどくんと強く鳴る。
ナトゥーアとの戦争。その戦争は規模が大きく、確かに周辺の村や町を巻き込んだ戦となった。戦争ではありがちなことで、特に国境の村は戦に巻き込まれやすく、戦の度に村が壊滅させられることもある。それゆえ男がリセンに恨みをもつのは筋違いだ。
だがリセンはその男の怒りを否定することができなかった。男の言う通り、その原因の一端は自分にあるからだ。リセンが竜の力を使わなければ、戦場がナトゥーアの国境にまで達することはなかっただろう。そうすればこの男の家族は死なずに済んだだろうし、その他にも命を落とした大勢の人間が死ななかったかったかもしれない。
だがおそらくこの男もそれがすべてリセンの責任でないことは理解しているのだろう。だからこそ溜まった怒りを放出しようがなかったのだ。
しかし今、男はその怒りを存分に放出できる状況に巡り合った。男は手に持っていた短い刃物をリセンの肩のあたりに持ってくる。
「……そういえばお前、竜の力を失ったんだってな。だったら刃物でも傷つけることできるんだよな?」
リセンの全身が強張る。ぞくりとする。背筋に冷たいものが走り、全身から汗が噴き出る。おそらくこの男に胸ぐらを掴まれていなければ、地面でうずくまって震えてしまうほどだ。それほどリセンにとって痛みは未知のものなのだ。
「お、おい……だからやめろって!」
それまで話を聞いていた男達は、慌てて制止する。しかしその声を無視して、男は腕を大きく振りかぶった。そして大声で叫びながら思いきりリセンの肩に刃物を突き刺した。
「ぐぁあああああっ!」
あまりの痛みに絶叫する。
刺された部分が熱を発し、直後に鋭い痛みが迸る。そしてまるでその痛みの大きさに耐えられないとでも言うように、一瞬激しい耳鳴りが発生し、視界も雷が走ったようにちかちかとなる。
それが収まると今度は肩部の刺された部分が持続的な痛みを発し始めた。
リセンは口も開けない状態となってしまった。
とにかく痛かった。頭がおかしくなりそうな甲高い痛みに襲われながら、細くなった喉で呼吸をするのが精いっぱいだった。
そのすぐ後、男は他の仲間たちに押さえつけられ、リセンはようやく解放された。しかしそのままずるずると崩れ、再び地面に寝転がる。
男達は刃物をリセンの体に残したまま、すぐにその場を去っていった。しかしリセンはその事実さえも頭の隅で認識するほかなかった。
リセンには、もう立ち上がるほどの体力がなかった。
「……うぅッ!」
思わず胸の奥から込み上げる感情が溢れそうになる。何故自分がこんな思いをしなければならないのか。何故あの男は無抵抗な人間にこれほどまでの仕打ちができるのか。それらの悲しみや悔しさ、怒りの感情が大きく膨れ上がり、体中を支配していく。
だがすぐにリセンはそれを必死に抑えつけた。
今、ここでリセンが弱音を吐くことは許されないのだ。何故ならリセンは、戦争という理由で、このようなことを何百、何千もの人間にしてきたのだから。おそらくリセンの相手をした全員が、今リセンが感じている以上の痛みに苦しみながら死んでいったのだ。そんなことを何の感情も抱かずに繰り返してきたリセンは、ここで自分だけ被害者となることはできないのだ。
人を傷つけるということはこういうことだと、リセンは自分の体で味わって初めて本当の意味が分かったような気がしていた。だからこそ余計に動くことができなかった。
冷たい地面の上に、リセンは流れ出ていく血すらも気にせず、ずっと横たわっていた。
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