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「……ごめんなさい、取り乱して」
ずっと立たせておくわけにもいかず、リセンがまだ涙を流し続けているヴェレナを部屋の中に導いてからしばらくして、ようやく落ち着いたヴェレナは真っ赤に腫れた目を伏せたままでそう言った。
「いや……」
少し驚きはしたが、ヴェレナは自分のために泣いてくれたのである。謝られるようなことは何一つされていない。
しかしリセンは今までこういった状況に直面したことがないため、次に何を言えばいいのか、何をすればいいのかがわからず、表面上では冷静に振る舞っているが心の中ではかつてないほど動揺していた。
ヴェレナもそうなのだろう。泣き止んだのはいいもののそれ以降一言も喋ろうとしなかった。
「そ、それで……ヴェレナは本当な何をしにここに来たんだ?」
わざわざ教えてもいない家にまで来たのだから、おそらく先ほどのことを言いに来ただけではないのだろう。
その言葉にヴェレナはすぐにはっとして、立ち上がってこちらに近寄ってくる。
「そうだった……ちょっと怪我したところを見せてくれない?」
リセンはヴェレナの意図が掴めなかったが、今は素直に従おうと思い服を脱いで上半身を露わにする。リセンの上半身には無数の傷ができており、血が滲んでいるものや痣になって青黒くなっているもの、まだ傷口が閉じてないものもあった。
「……ほんとにひどいわね」
ヴェレナは雑に巻かれた包帯達を取り除きながら、改めて傷の有様を確認したようだった。
そしてすべての包帯を外し終わると、今度は両手を突き出し、掌を傷の部分に覆いかぶせるようにして当てた。
「……本当は私、今日はあんたの傷を治しに来たのよ。魔術師はね、ちょっとした治癒魔法も習うのよ。だから少しくらいなら私の魔術で怪我を治せると思ったんだけど、どうやらこれじゃ完全に治すことは無理そう……」
「少しでも傷を塞いでくれるだけで十分だ。実は傷が服に擦れて痛んでいたんだ」
「……それなら早くいいなさいよ。とりあえずやってみるけど、あまり期待しないでね」
それからヴェレナはぶつぶつと魔術の詠唱を呟き始める。そしてすぐにヴェレナの掌に緑色の光が発生し、それがリセンの傷を包み込んだ。
その光はまるでクリームで包まれているかのような柔らかな感触で、最初は少し痛みを発していたが、徐々に痛みが和らいでいき、ついに完全に痛みを発しなくなった。その部分を見てみると、まだ塞がっていなかった傷がほぼ塞がっている。試しに触ってみても、痛みを感じなかった。
「すごいな……あの傷が塞がったのか……」
「今のは小さな傷だったからよ。大きな傷になると私じゃ治せないわ」
そう言いつつも、ヴェレナは次の傷の治癒に取り掛かり始めている。おそらく治癒魔術は神官や司祭の領分なので、そう使うものでもないのだろう。だがヴェレナはそんな不慣れな治癒魔術で、リセンの体にできている無数の傷をこれから治癒しようとしているのだ。この傷全てを治癒しようと思えば、おそらくそれだけで何日分もの精神を消耗してしまうだろう。
改めて、この少女は何故こうも他人のために自分を犠牲にできるのだろうかと疑問に思う。
「……なあ、ヴェレナはなんでそうやって他人のために動くことができるんだ? この傷だって、治さなくてもヴェレナには何の不都合もないだろ?」
その問いにヴェレナは治癒の手を止めることなく答える。
「そうね……強いて言うなら気持ち悪いから、かしらね。一応あんたとはもう知らない仲じゃないんだし、そんな人が全身に怪我を負って外にも出られない状態になってるのを放置するなんて気持ち悪いじゃない?」
そこで気持ち悪いと思えるということ自体、ヴェレナが根っからのお人好しだということの表れだ。そんなことを知ってか知らずか、ヴェレナはそれに、と続ける。
「あんたがこんなことになった原因のひとつは私だしね。私があんたに力を使うなって言ったから、舐められて暴力を振るわれてるわけだし」
「そんなこと気にしてたのか……。最終的に竜の力を使わないと決めたのは俺なんだから、別にヴェレナのせいじゃないだろ」
「それでもよ。言葉を発したからには責任はずっとついてまわるものなのよ」
だとすればそんな責任は重すぎだとヴェレナに言ってやりたかった。リセンからすればヴェレナの言葉の責任なんて関係なく、自分の決定をヴェレナのせいにする気など一切ない。
それをリセンが口にしようとした瞬間、ヴェレナの治癒魔術が終わった。どうやら一通りの傷を治癒できたようで、やはりまだ痛むところもあるがだいぶ和らいでいる。
リセンが口を開くタイミングを失いながら服を着ていると、かわりに再びヴェレナが口を開く。
「……本当のことを言うと、私はあんたが壊れそうで怖いのよ」
「壊れそうで怖い? 俺がか?」
「そうよ。私の父、アーベルのことについて、あんたは知ってたわよね?」
「元魔術師協会会長の賢者だろ?」
何故突然アーベルの話をしたのだろうかと首をかしげる。
「そう……じゃあ何故そんなアーベルが急に行方不明になったかは知ってる?」
「それは、知らないな」
知りもしないし、そんなことを考えたこともなかった。アーベルは既に大半の人間の中で過去の人物となっている。アーベルが果たした快挙の数々は知っていても、その人物がどんな生活をしていて、何故姿を消したのかについては知らなかった。ヴェレナがアーベルの娘だということも少し前に本人から聞いて初めて知ったぐらいだ。
「私の父さんはあんたと同じ。周囲から投げかけられる色んな感情に圧し潰されて壊れてしまったのよ」
「え……?」
リセンは思わず目を見開いた。あの天才魔術師アーベルが、まさか他からの重圧に耐えられず逃げ出したなんて想像もできなかった。
「父さんは今じゃ英雄みたいにもてはやされているけど、当時はそんな憧れや尊敬の感情ばかり向けられていたわけじゃないのよ。特に魔術師協会の中じゃ、あんたと同じで他の人から恐れられ、嫉妬され、ずっと孤立していたのよ」
少し視野を広げればわかることだった。アーベルは全国民から尊敬されているのだとずっと思っていたが、その功績をおいしく思わないものも当然いたはずである。同じ魔術師はもちろん、アーベルが何故か得意としていた剣術の修行に励む者たちもそうだったに違いない。ほぼ真反対の能力である魔術で天才的な人物が、何年も修行してきた剣術でさえも自分を凌駕すると知り、素直にそれを受け止めれる人物はそう多くないだろう。
そんな多くの人たちから妬みや恐れ、憎しみの感情を向けられ続ければ精神的に深い傷を負ってしまうのも不思議ではない。
「だけどそれ以外の人たちは、父さんに向けて憧れや尊敬の眼差しを向けていた。でも父さんはそんな人々の期待に、いつも悩んでいた。本当に自分がその期待に応えられるのかってね。そんな人々からの色々な感情を向けられ、父さんは徐々に壊れていった。そしてついにある日、私たちにも何も告げずに家を出ていったのよ……」
「……怒っているのか? 何も言わずに出ていったアーベルさんに」
ヴェレナの言葉に怒気が込められている気がして、つい尋ねてしまう。
「……そうね。困っているのに、それを解決しようとしていなかったことに腹が立ったのよ。あんたにも言ったように父さんだって一人の人間なんだから、そんないろんな重圧に心が壊れるまで耐える必要なんてないはずなのよ。困っているなら周りに打ち明けて解決すればいいのに、父さんはそうせずに結局手遅れになってしまったのよ。でも、そんなときに何もできなかった私にも腹が立ったわ。そんな父さんを側で見ていながら何も助けてあげられないなんて、どうして私はこんなに無力なんだろうってね」
ヴェレナは唇を噛む。アーベルが急に姿を消した時、相当悔しかったのだろう。
自分の父親が段々と弱っていくのを間近で見ているにも関わらず、自分では何もしてあげられない。おそらくヴェレナはそんな感情に幾度となく苛まれてきたのだろう。賢者になりたいという夢だって、自分に力をつけるためにそうなりたいと思っているのかもしれない。
「……でもあんたも同じよリセン。最初、あんたは周りの皆から怯えられていることで悩んでいたのに、それを解決しようとしなかったじゃない。仕方ないって諦めてた。それが私の父さんと一緒で、腹が立ったのよ。だからあんたにずっと溜まった文句を言ってやったの」
「そういうことか。確かに、俺はあの時すでにもう周りから怯えられるのは仕方ないことなんだと諦めていたな」
「そうでしょ。だけどあんたは次に会った時もまだ竜の力を使ってて、私はそこで本当に呆れたのよ。そしたらレアが、人はそんなにすぐに変われないからもう少し待とうって言ってきたのよ」
レアは常に怯えていた記憶しかないが、それでもきちんとヴェレナとリセンのことを見ていてくれたのだろう。ずっと心配もしていてくれていたようだし、レアもまたヴェレナと一緒で相当のお人好しなのだろう。
「でも実際その言葉通りになったわよね。あんたはそれきり竜の力を使わなくなった。国王様に呼び出されても意思を曲げなかった。それで私すごい嬉しかったのよ。今度は父さんの時と違ってちゃんとあんたを助けることができたって。あんたは私の前からいなくならいんだって……」
「……そうか。ヴェレナは俺がアーベルさんと同じにならないように助けてくれたんだな」
「……でもだからこそ悔しいのよ。せっかくあんたを助けることができたのに、こんなことになるなんて」
ヴェレナは再び顔を下へ向けてしまう。膝の上に置いていた手も今は強く握りしめられている。
おそらくヴェレナは怖いのだろう。再び自分の目の前から誰かが消えてしまうのが。自分の力では誰かを救うことができないとはっきり知らされてしまうのが。だからこそ同じ過ちを繰り返さないよう、今こうしてリセンを精いっぱい助けているのだ。自分がその人の力になるために。その人を救うために。
だがそんなどこまでもお人好しなこの少女を、他でもない自分のせいで不安にさせてしまっている。やっと自分でも力になれた。やっと人のことを助けることができた。そんなヴェレナの気持ちは再び遠のきかけている。
だからこそ今度はリセンが助ける番だ。これまで助けてくれたヴェレナに、ヴェレナは確かに自分を救ってくれたときちんと伝え、そしてヴェレナの不安を解いてやるのだ。
「大丈夫だ。俺はアーベルさんのようにならないし、ヴェレナの前からいなくなったりしない。だってアーベルさんがもっていなかったものが、俺にはあるんだからな」
「え……?」
思わず怪訝そうにこちらの顔を見つめるヴェレナに、柔らかい笑みを送る。
「ヴェレナだよ。アーベルさんの時と違って、今の俺にはヴェレナがいる。だったら俺は今のままでいられる自信がある。実際に俺は何度もヴェレナに救われているんだ。この先なにがあっても自分を失うことはない。それほど俺はヴェレナを信じているんだ……だからヴェレナも、俺を信用してほしい」
その言葉にヴェレナは一瞬だけぐっと唇をかみしめると、ふわりと顔を綻ばせた。
「うん。信用する。だから絶対どこにも行かないでよ」
「ああ、約束だ」
リセンは改めて決意する。竜の力という泥沼にはまっていた自分を助けてくれたこの少女を、今度は自分が守るのだと。そしてもう二度と、この少女に涙を流させないようにしようと。
そしてもっともっと強くなろうと思った。ヴェレナも自分も、両方ともが笑っていられるように。
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