2.ソーシャル・ディスタンシング

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2.ソーシャル・ディスタンシング

 翌日の午後、日暮はスーパーのレジに並んでいた。母親に買い物を頼まれたのだ。  面倒クセェなぁと思いつつ、釣り銭をくすねてパチ代に廻せるので、行って来いだ。  母親は息子が釣り銭を誤魔化しているのを、見て見ぬフリをしている。一度やんわりと咎めたら、逆ギレし手を上げられたので、それ以来、腫れ物に触るように接していた。年老いて出来た一人っ子のため、甘やかして育てて来たせいだと、母は自分を責めていた。  緊急事態宣言以降、平日でもスーパーは混雑し、日暮が並ぶレジも長蛇の列だ。 イライラしながら並んでいると、前に並んでいる中年女性が、肩越しにチラチラと自分を見ている。 —— チッ……感じわりぃババァだな…… 日暮の心を読んだように、女性がぐるりと顔を向ける。 「ちょっと、後ろ下がってください」 「はぁ?」 女性は日暮の後ろを指さす。 「あそこに赤いライン貼ってあるでしょ。次の人はあそこなんです。距離取るために」 「チ……うっせぇよ」 「ま、なんですって……ルールでしょう。みなさん、守って並んでるわよ」 「うるせんだよババァ」 日暮が捨てゼリフを吐き、二歩ほど後退すると、周りの客がざわっと目線をやる。 —— 見てんじゃねーよ!  レジを終えた日暮は、苛ついたままカウンターでドサドサと袋詰めを終え、店を出た。 「—— ちょっとあんた」 背後から呼び止める声だ。振り向くと、眉間にシワを寄せた恰幅の良い男が立っている。傍らにはさっきの中年女性。 男は右手にショッピングバッグを下げている。買い出しする妻を、店の外で待っていたようだ。 「あんた家内にうるせぇとか言ったらしいな」 「あ? ……だったら、なんだ……」 男は日暮よりも三十センチほど上背があり、腕回りも丸太のようだ。百キロ以上ありそうな巨漢に、日暮は口ごもる。 「失礼じゃないか。こっちはルール守って並んでたんだ。うるせぇとか言われる筋合いは、ないんじゃないか」 正論だ。日暮はおし黙る。 「みんな感染広げんように辛抱してるんだ」 「……るせぇ……」小声でこぼす。 男がぎょろりと眼を見開くと、日暮は脊髄反射で目を逸らす。 「あなた、行きましょ。馬の耳に念仏よ」女性が旦那の腕を引く。これ以上は喧嘩になると察したのだ。  旦那はしばらく日暮を睨みながら、商店街の人混みに紛れていった。  日暮は肝を冷やしたが、反省するどころか、苛々が増すばかりだ。 —— ざけんな! 自粛とかなんとか、うっとーしーんだよ。善良な市民ぶりやがって胸くそ(わり)ぃ! 店頭に並ぶ自転車の一台を蹴りつけると、ドミノのようにガシャガシャと横倒しになった。 「ちょっと!」店員が声を荒げる。 日暮は逃げるように、その場から小走りに去った。  こうした小競り合いは、各地で起きていた。  ソーシャル・ディスタンシングを守る人がいる一方で、江ノ島に人が押し寄せたり、ノーマスクでジョギングする連中が、社会問題化していた。  ルールを無視する連中は、「自分ひとりくらい」と考える。こうした連中が、行楽地やパチンコ屋に殺到し、結果的にはルールを守る人の感染リスクになる。歩くコロナウィルスと非難されても、連中は知ったことじゃ無い。 まさに、馬耳東風だ。  新型コロナを契機に連携を始めた、都道府県知事会でも、この連中をどう抑え込むか、討議を重ねていた。そして行動心理学の専門家の提言により、新しい施策を発表することになった。
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