【 10 】

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 採集用の質素な革袋を背負ったエミルエマルカスが、再び山の鉱窟を目指したのはそれから数日後の朝であったが ─── すぐに工房を出られた訳ではなかった。彼が建物から歩み出るのとほぼ同時に、道と中庭を繋ぐ反対側の外門からずぶ濡れの大男が入り込んで来たからである。  それは水深儀に腹を立て続けている、例の漁師であった。 「 アテナイ人 」  血走る眼を()き開いた漁師はぜいぜい荒い息をつき、そこに図らずも立つエミルエマルカスを認めると、必死の形相で口をわななかせた。 「 ア ‥‥‥ 、ア 、アテナイ人 」 「 何の用だ 」  潮の匂いと共によろよろと近付こうとする漁師とそれを見やる師との間に、見送りの弟子の一人が早足で割り込み闖入者(ちんにゅうしゃ)を怒鳴りつけた。漁師の様子は尋常ではない。海から上がってそのまま駆け通しに、工房を目指し走って来たのだと思われる。  漁師の腕は、ひどく(いた)んだ一体の水深儀を魚網(ぎょもう)に包んで抱き締めていた。その壊れ方は今までのような軽い嫌がらせとは大きく違っている。 「 アテナイ人 」  壁となっている弟子を無視して、漁師は膝まづいた。 「 ありがとうアテナイ人ありがとう、息子を助けてくれてありがとう。お、俺は …… 俺は、間違っていた。俺は今までしてきた事をどうやって謝罪したら良いか分からない。ああ 」  そこまで言ってから、漁師は前のめりに倒れた。 「 いかん、気絶したようだぞ 」  わらわらと集まって来たものの訳が分からず呆気に取られるばかりの弟子たちの隙間を、エミルエマルカスがすっと抜け出て漁師に駆け寄って行く。  水を、と命ずる師の声に応じて弟子たちがめいめいに動き出し、井戸車を巻き上げる者に動かなくなった漁師を抱え起こす者、医術師の元へと走り出す者、工房の作業台を動かして簡単な寝床を誂える者などで中庭は急に忙しくなった。
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