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【 21 】
「 アテナイ人の先生がいなくなったら寂しくなるなあ。ずっとこの島にいてくれるもんだと思ってた 」
漁師は飾らず正直に別れを惜しんでいる。
「 せめて最後の晩には、俺の釣り上げた上物の魚をたらふく食ってもらいたいもんだが …… まあ、どうなるもんかな、そっちの方は 」
言い終わりの曖昧さを、漁師の息子が引き取って補足した。
「 あのね先生、近頃は海で獲れる魚が少ないんだよ 」
その横を歩いている港住みの仲買人や他の島民もその話題を受けて、「 ひもじくなる程の不漁じゃないが、大口の商いで売り捌ける数でもない …… 」 と景気が悪そうに頷いている。
海流に変な濁りが混ざってやがるせいでな、と漁師は独り言をこぼした。
「 魚はその汚れた流れに乗りたがらない。 今、島を通る潮目が運んで来るのは色の付いた空っぽな水だけだ 」
さっきの歯切れの悪さはそのせいか、とエミルエマルカスは察するとともに、島ににわかな不漁をもたらしているという厄介な現象を知って胸騒ぎを覚える。
‥‥‥ 海流の濁り ‥‥‥ 。
何かで読んだ事があった。
◇
「 うむ、ええと、それはきっと赤潮じゃないかな。 藻やアカアミのような水中の微生物が一気に数を増やしたりすると老廃物のせいで水が汚れてだね、その流れの中では大型の魚は生きられなくなる。 毒なんだ 」
弟子の一人が、師との四方山話から聞きかじった雑学を漁師に披露してみせる。
「 濁りは黒い 」
漁師は言い飽きた調子で陰気に否定した。 もう幾度も同じ説明を繰り返してきたらしい。 実際、港の漁師仲間の間ではここ数日に渡ってこの話題と悩みで持ちきりなのである。
「 だから赤潮じゃねえよ。 妙な色の原因にしたって、何かの生き物が絡んでるって訳でもない。 俺は自分で海の水を何度も手拭いですくって調べてみたんだが ‥‥‥ つまらねえ事に潮の色を変えてるのは、ただの細かく砕けた岩粒さ 」
「 岩粒? 」
エミルエマルカスは歩みの後方で進む会話に振り返った。
「 岩粒か 」
登りの勾配に合わせて前傾させていた背筋が伸び、緊張していく。
「 細かい岩粒が、潮に運ばれて来るという事かね。 潮流の色が黒く変わり、魚が獲れなくなる程の濃さで? 」
職人はただ振り返るだけでなく大きめの声でそう問い掛けると、強い力で足の動きを停めた。
「 あ、ああ先生、その通りだ 」
エミルエマルカスの真剣さに少々気圧されて漁師が我知らず言い淀んだのは、その眼差しが奇妙にも自分や弟子たちを見ていなかったからだ。
その目は彼らを越えて、遠く海原の彼方に注がれていた。
◇
「 手拭いで海流をすくった、と言ったね。その手拭いは? 」
有無を言わせない雰囲気だ。「 さっき濯いだばかりだから、岩粒がまだ残ってるかどうかは分からねえけど ‥‥‥ 」 漁師は慌てて腰紐に挟んでいた粗織りの布切れを差し出した。
「 若い頃に読んだ地学書に、『 黒い水 』という現象が記されていた 」
誰に言い聞かせるわけでもなく語りながら、エミルエマルカスは手拭いの織り目に沿って指先と視線を走らせて行く。
「 海の火山についての話だ。 海中で噴火が起きると、その初期には噴煙が上がるのではなく水が黒ずむ、とあった。 それが黒い海水の流れになる、と 」
「 ‥‥‥ 火山ですか? 海に? ええと、水の中に、でしょうか? 」
弟子の一人が念を押した。
「そう、海中に聳える火山だよ。
海水によって地形が見えにくくなっているだけで、海の底にも山や谷があるのは我々が知る地上とさして変わりはない ‥‥‥ そして海の火山もまた ‥‥‥ 地上の火山と同じように、時として大いに活動を見せて火を吹き出す事があるのだ。 もっとも普通の火山と違う点は、周囲の海水が溶岩を即座に冷やす事だが 」
半分うわの空で説明しながらも、職人の鋭敏な感覚が布の表面から一粒の小さな石片を探り当てる。
「 あった。これか ‥‥‥ これは 」
エミルエマルカスは潮を濁らせている原因に眼を凝らし、その正体を難なく見極めた。
「 これは、凝遷岩だ 」
職人は指に乗せた岩粒を日光に数度反射させてから、やや無念そうに「 水による摩耗が無い。 新しい、出来たばかりの ‥‥‥ 非常に真新しい凝遷岩だ 」 と繰り返した。
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