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 そんな安心感が島に広まり始めたある時、初期の頃に設置された一体の水深儀がその機能を止めた。 波の予報が正確さを欠き始めたため人々は慌てて船を出し、危険を顧みずその機械を回収して、エミルエマルカスの宿泊している旅宿へと運び込んだ。    ◇ 「 ああ、そろそろだと思っていた。 分かっていた事だ 」  職人は、いたって穏やかに島の人々を出迎えた。 まだ海水に濡れたままの水深儀を心配そうに抱える一行を作業台へと促し、漁網から取り出された自律機械を厚布の上に安置する。  痩せぎすの体に似合わず、やや重さのある水深儀を持ち上げるエミルエマルカスの動作はしっかりとしていて力強い。  ほとんど白くなった総髪を肩の辺りで束ねているせいで年老いた印象を与えてはいるが、旅に鍛えられた身体は見た目以上に頑健なようである。  島の男たちに比べると背丈が目立って高いのも、大柄な者の多い事で知られるアテナイ人らしい特徴だ。 ただ、作業台で集中して水深儀と向き合いその体を猫背気味に傾ける時には、少し滑稽なほどにその(たい)()は小さく控えめに縮こまった。 「 この機械が停まったのは、壊れたからではなく ‥‥‥ 」  職人は幾つかの止め金具を緩めてから陶製外殻(がいかく)の上半分を取り外して、動かなくなってしまった水深儀の内部を島の人々に示してみせた。 その中には無数の歯車や梃子(てこ)仕掛けが、木枠の骨組みの中で複雑に配置されている。 「 動力が尽きたのだよ。 力を充填し直せば良いのだ 」  水深儀の内部から(てのひら)ほどの長さのある青銅の円筒を数本、次々に抜き取りながらそう言って、エミルエマルカスは大きな巻き締め台座の中央に、筒のうちの一本を慎重に固定した。 「 原理自体は単純で、弓や投石機で矢や石を飛ばすのと大きな違いはない。 やり方を見せておこう 」  巻き締め台座は、その言葉通り投石機の発射装置を小ぶりにしたような外観である。 軸の中央から四本の取っ手が等間隔に突き出ていて、両手を使ってその部分を(じゅん)()りに回転させていく仕組みのようだった。  恐るおそる作動部分の根元をのぞき込む島の人々に、今度は台座に固定したのとは別の青銅の筒から、その中身を引き出してみせる。  見れば螺旋(らせん)の形に何重にも規則正しく曲げられた、細い鉄の棒である。 上腕ほどの長さがあった。 「 これは()()だ 」  エミルエマルカスが一端を持って軽く上下に振ってみせると、それは金属特有の光沢と一緒に柔らかく揺れた。 「 このバネに重みをかけて、小さく小さくたわませ、押し縮めていく。 すると、バネは元の形に戻ろうとして、力を出す。 水深儀は、その時の反発力を利用して動いているのだ。 弓と違うのは、バネの力を一気に解放せず、ゆっくり時間をかけて取り出していく点だな 」 言いながら巻締(まきしめ)()の取っ手を慣れた手つきで回転させていく。 固定された青銅の筒が、ギシギシと音を立て始めた。 「 この筒の中にも、今見せたのと同じバネが仕込んである。 今聞こえているのはバネに重みが掛かって縮んでいく音だよ 」  職人は楽しそうに、しばらくの間この作業を続けた。 一杯分のユキギク茶を煮出す程度のわずかな時間が過ぎた後に軋むような音は止んで、その代わりにどこか陽気さを感じさせる、カチリ、という高い音が鳴った。 「 これでいい 」  エミルエマルカスは青銅の筒を手の上に乗せて、さらに説明を続ける。 「 巻き上げ機の軸を動かした私の力が、今はこの筒の中に移されている。これは例えて言うなら、水深儀の心臓のようなものだよ 」  それから台座の側に転がした残りの筒を指差し、「 ひとつの水深儀には、この筒が六本入るようになっている。 あと五本、力を入れ直す必要があるわけだ。 誰かやってごらん 」  人々は職人の助言を何度か受けながら、熱心にその工程を学んだ。 この先も港の安全を維持しようとするなら、水深儀の助け無しにはうまくいくはずがなかったからだ。 これを誰かが新しい仕事として受け持つ予感の中で、残る青銅の筒にも次々と新しい力が蓄えられていく。 やがてその作業が終わって全ての筒が球体の中へと収まると、水深儀は何事もなかったかのように、眠りから目を覚まして再び動き始めた。 もっとも、そこは測るべき潮流とは無縁の場所、海の中ではなく乾いた作業台の上である。  球形の自律機械は「 おはよう 」と(たわむ)れの挨拶をしたエミルエマルカスを見上げる形で、今の自分の居場所について少し不思議がっているように聞こえなくもない歯車の微かな刻転(こくてん)音と共に『 大波なし 』の印をカタリと表示した。
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