ハナダの花 01

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ハナダの花 01

 自分の価値は白黒の鍵盤を叩く十本の指だけに集中していて、それ以外のパーツはすべて無価値だ。価値の詰まった指の使い道をなくしてから、遠野奏(とおのかなで)はからっぽの体をただ何となく生かすだけの日々を送っていた。  初めてピアノを触ったときのことをうっすらと覚えている。まだ三歳だった。体験入学に訪れた音楽教室で才能があると先生にべた褒めされ、その日の帰りは母がやけに上機嫌だった。  母はかつてプリマバレリーナを目指し、十代で挫折をした経験がある。夢に敗れた過去を引きずって生きてきた母は、奏の才能に気づくと、その指先に彼女自身の未来を託した。重たすぎる母の期待を奏は背負って、これまでの人生のほとんどをピアノに費やした。あらゆるコンクールで数えきれないほどの賞をとり続けた。自分はそうあり続けなければならないのだと、息苦しささえ覚えながら。  〝神童・遠野奏〟の呼び名はいつしか奏自身の、そして何者にもなれなかった母の、アイデンティティになっていた。  期待に応えるためだけに生きる日々は突然終焉を迎えた。十五年弾き続けたピアノを、高校三年生に上がった春にきっぱりやめたのだ。というよりも、ささいなことで弾けなくなった。  生きる理由を失って、奏は人生の迷子になった。けれどいずれにせよ続けるのは無理だった。ひとつの過ちで未来はおおきく変わるものだ。  自らのすべてだったピアノを置いて、奏は今日、実家を出る。ゴールデンウィークの最終日。最小限の荷物をまとめ、昼過ぎには旅立ちの準備が済んだ。 「本当に行っちゃうの」  母の問いに、靴を履きながら無言でうなずく。衣類など生活に必要なものは、新居である伯父の家にすでに送ってある。 「しばらく戻ってこないのね」 「うん、少なくとも卒業までは」 「夏休みは?」 「戻らない」 「そう……。おじさんの家までの行き方はわかる?」 「駅まで迎えにきてくれるから平気」  背を向けたまま最低限の受け答えのみをした。靴紐を結ぶのにうつむくと、ずいぶんと伸びた黒い前髪が垂れてうっとうしかった。これから暮らす町には髪を切る場所があるのだろうか。何もない田舎町だと聞いている。 「ねえ、ピアノは本当にいらないの?」 「……うん。もういい」  母が黙り込んでしまう。居心地が悪い。早くその場を去ろうと立ち上がったとき、奏の片腕が背後から掴まれた。 「やっぱりいかないで」 「それは無理だ」 「どうして。どうしてお母さんから離れようとするの。ねえどうして。お母さんのこと、嫌いになった?」  捲し立てる母に、奏は唇を強く食いしばった。引き止めてくる手を振り払い、母とやっと視線を結び合わせる。 「弾けないからだ」  自分とよく似た吊り気味の瞳が、今にも零れそうににじんでいた。母はついには両手で顔を覆い隠してしまう。肉親の泣く姿を見るのはさすがにきつい。奏は目を逸らし、今度こそドアノブを握った。 「一人にしないで……」 「……ごめん」  ひらいた扉から差し込む昼下がりの日差しが、奏の瞳をまぶしく射る。うとましいほどに晴れた空。 「もういや! 全部あの男のせいじゃない!」  声を荒げる母の姿を見てしまう前に、奏は扉を勢いよく閉めた。  ――違う。あの人だけのせいじゃない。  ――好きになった俺が、いちばん悪い。  去り際に一度だけ立ち止まり、生まれ育った家を見上げた。横浜の海が見える庭つき一戸建て。大金持ちではないが人よりは裕福な暮らしをしていた。海上保安官である父は数週間から、長いときには半年以上帰ってこず、この家ではほとんど母と二人で過ごした。  奏が幼い頃、母はよく「お父さんに会いたい」と泣いていた。僕がいるよと奏が駆け寄ると、母は鼻をすすりながら奏を抱きしめた。僕がいるよ、母さん、ピアノがんばるから、泣かないで――。  さびしがりやの母にとって、きっと奏がすべてだった。  奏は今度こそ前だけを見て、第一歩を歩み出した。  乗り込んだ電車のドア前に立って、海と空の境界線を眺める。遠くには小洒落た桟橋と特大の観覧車。横浜を離れて暮らすのは初めてで、この慣れた景色をしばらく見られないことだけが心残りだった。  ――観覧車……。  ――結局、乗れなかった。  乗ったことがないと話す奏に、いつか一緒に乗ろうと微笑んでくれた人。生まれて初めての恋だった。おそらくもう二度と彼に会うことはない。今頃どこで何をしているだろうと想像して、みじめになったのですぐにやめた。  転校の手続きは済んでいる。小一からかよった小中高一貫の私立学校は、実質退学だったが自主退学という形で去った。さびしいとは思わない。幼い頃からレッスンばかりで同級生と遊んだ記憶がないので、心から友人と呼べる存在は奏には一人もいない。女子からも何度か告白されたがすべて断った。人並みの交友関係を築けず、それでいて苦ではなかった。自分はそういう人間だ。  電車と新幹線を乗り継ぎ、それからまた電車に乗って。三時間ほどで目的地にたどり着く。駅にはかろうじて自動改札機が導入されていたが、そこを抜けると噂どおりの田舎だった。駅前だというのに店ひとつない。閑散としたロータリーには、伯父のワゴン以外に車も見当たらない。 「こっちだぞー」  伯父・清隆が窓から顔を出す。昔から端正な顔立ちだったが、いい感じに歳をとっている。奏は礼を告げ、なんとなく隣は選ばず後部座席に乗り込んだ。車はロータリーをぐるりと辿って、閑散とした田舎の道路をいく。 「でかくなったな。三年ぶりか」 「四年ぶりだ」 「そうだっけか。ならあいつも生きてたな」  あいつとは、清隆の恋人だった男だ。三年前に事故で亡くなったと聞いた。会社の同僚同士で恋に落ち、マイノリティーを隠したまま二人で辞めてこの田舎に移ってきた。二人で営んだ喫茶店を清隆は今も続けていて、週末はバータイムも営業している。  駅から少し離れただけで、景色には緑がどっと増えた。この田園地帯を抜けた先に伯父の暮らす自宅兼喫茶店はある。 「学校辞めたんだって? もったいねえなあ、イイトコだったんだろ」 「別に、学校なんてどこだって一緒だ」 「どうだかな。日本はまだまだ学歴社会だぜ。それに明日から通うのって、立山高校だろ?」  ルームミラーに映る清隆の目が奏を見てにやつく。 「あそこは裏がひろーい林になってるから、夏は虫もわんさか飛んでくるだろうな」 「……虫は嫌だ」 「はは。ガキの頃、ちょうちょ見て大泣きしてたもんな」 「覚えてない」 「おじさんは覚えてるぞ」 「……知らない」  幼い頃の話を掘り返されるのは恥ずかしく、奏はそれ以上は黙ってつんと窓の外を向いた。 「そんで。都会っ子が学校辞めてまで、こんな田舎に何しにきたんだ?」  茶化した口ぶりから一転して、清隆は神妙にたずねる。  清隆を頼ったのにはちゃんとした理由がある。 「男に振られた」  ミラーの中で清隆の瞳が丸くひろがるのが見えた。当然の反応だ。自分が〝清隆側〟だと打ち明けるのははじめてだ。しかし清隆はすぐ、当たり前の恋愛話でも聞いたみたいに笑い飛ばした。 「実家飛び出してくるほどのことかよ」 「相手は教師で、体の関係もあった」 「はあ!? 教師!? 何やってんだお前!」  さすがの清隆も声を荒げたが、すぐさま冷静になって片手で額を覆った。 「悪い。お前を怒鳴るのは違うな。こういうとき、悪いのは手を出した大人のほうだ」 「違う。好きになった俺が悪い」  奏は組んだ手元を見下ろす。  そう、自分が悪いのだ。好きになってはいけない人を好きになった。  彼は若い非常勤講師だった。奏が高等部に進学した年に就任した音楽教師だ。  学校なんていくだけ無駄と思っていた奏にとって、はじめてできた〝学校へ通う理由〟だった。奏の想いを知ってか知らずか甘い言葉で絆され、人には言えない関係にまで発展した。彼の婚約者だという女が学校に乗り込んできたのは先月のこと。親を含め周囲にすべてがバレ、奏は精神的ショックでピアノを弾けなくなった。奏でるために椅子に座っても、まるで金縛りみたいに指が自由に動かなくなるのだ。  生まれてはじめての恋だった。でも奏は、事が大きくなるまで彼に婚約者がいたことさえ知らなかった。相手の女性には「死んじまえ」と泣きわめかれた。それだけのことをしてしまったので文句は言えない。 「……俺が悪い」 「いや。好きになるのが悪いなんてこと、あるわけねえ」  強い口調で言いきると清隆は、助手席のグローブボックスを開け、しまってあった缶を奏に投げ渡した。 「つらかったな」  奏は反射で受け取ったが、そこに描かれたコーヒー豆のイラストを見て眉をひそめた。 「……コーヒーは飲めない」 「ほとんどミルクだから飲めるだろ。くそ甘いし」  渋々開けて飲んでみる。練乳みたいに甘ったるく、思いのほか好きな味だった。もうひとくち飲んで、奏は景色に視線を逃がす。見渡す限り広がる田園と、壁みたいにそびえ立つ山々。横浜とは何もかも違う知らない景色が、すべてを忘れさせてくれると信じた。  どうせただ何となく生きるだけなら、つらいことも苦しいことも、全部忘れてしまいたかった。
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