入院したい

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入院したい

 日差しは強烈だが、ときおり風の中に冷たいものが感じられるようになった。秋がやってくるのだな、と野口秀頼は空を見上げた。  日が落ちるとめっきり寒さが身に染みると思ったが、そういうことだったのか、秋の後には冬が来る。のんびりしていられないなと公園のベンチに腰かけていた野口は立ち上がる。  公園入り口にある大きな時計は十八時を指そうとしていた。  路上生活者になって早くも三週間が過ぎた。東京まで行けばなんとかなるだろうと思っていたのだが、まだ落ち着いて寝泊まりできるところは見つかっていない。持ち合わせていた金は、とっくになくなっている。  これから冬を迎えねばならないと考えると、住処のない者としては少しでも暖かいところにいたいと思うのが人情だ。  しかし、ここはと思うところには必ず先約がいた。駅構内、ビルの片隅、地下鉄入口、これほどまでに路上生活者がいるとは思わなかった。流れ流れて公園にたどり着いたが、水道の近くや雨風をしのげる場所は、既に埋まっていた。 (そうだ、病院に入ってしまえばいいのだ。入院すれば飯も食えるしベッドで眠れる。若い看護師もいる、そうだ、そうするべ。俺はなんて頭がいいのだ)  野口は救急車を呼ぶことにした。自力で病院に行ったら「歩けるだけ元気があるなら入院する必要はないですね」といわれかねないと考えたからだ。  公園を出て、公衆電話を探す。  ない。  いつもは気にも留めない公衆電話だが、いざ探すとなかなか見つからなかった。  ようやくコンビニの店先にある公衆電話を発見した。店内の時計を見ると、二十分も歩いていたことが分かった。  電話のそばでたばこを吸っていた男がひとりいたが、野口の姿を見るとさっさと立ち去った。なにせ三週間、風呂に入っていない。服も三週間着た切りである。  野口は誰にも邪魔されずに電話の前に立ち、受話器を取る。電話器の前面に書かれている119番通報のかけ方を読んだ。  深呼吸してからボタンを押した。 「も、もし、もし」  野口が言うより早く「火事ですか、救急ですか」と耳が痛くなりそうなくらい大きな声が返ってきた。救急車だとまともに答えるとなんだかんだと問われそうだったので「く、苦しい」とだけ言った。  今度はそこの住所を教えてくださいと電話の向こうから訊いてくる。  公衆電話の横に住所が書かれているのを運よく見つけ、それを告げた。何か目標になるものはありますかと問われ、コンビニだと答えた。まだ何か聞かれそうな雰囲気だったので、もう一度「苦しい」と言い、電話を切った。  ため息をつく。  やることはやった。あとは救急車の到着を待てばよい。  病院に運ばれたら、あちこちが痛いとか、苦しいとか言って、検査してもらおう、検査している間は入院できるはずだ。  安堵の溜息がでる。  看護師に世話されながら病院のベッドで生活する自分を妄想し、野口は悦に入った。  救急隊は、路上に急病人という指令を受け出動した。目標はコンビニである。コンビニ敷地内の公衆電話ということらしい。 「公衆電話から通報って、なあ、それだけだぜ。通報は男だったらしいが、病人は男か女かもわからねえ、年齢も分からねえ、どんな具合かもわからねえじゃあ、どうすんだい、バッカじゃねえのか、指令室」  北川隊長が腹立たしげに言う。 「わたしにそんなこと言ってもダメです。直接指令室に言ってください」生真面目な新人女性隊員の杉野が答える。路上急病人を扱うのは初めてなので緊張しているらしい。声がかたい。 「お嬢ちゃん、本気で言ってるのかよ、本部だぞ。言えるわけねえだろ」へっと北川は鼻で笑った。「これが戦争当時なら、本部にたてついたら軍法会議にかけられて、下手すりゃあの世行きだぜ」 「いまは戦争していませんから」 「とにかく公衆電話に行ってみるべよ」今年定年の小池機関員がハンドルを握りながら二人をなだめるように言った。なんで仲良くできねえんだと小さな声で呟く。  ふたりは聞こえていないふりをしている。 「お、この辺だべ」小池がスピードを緩め、ウインカーを点滅させる。 「よし、降りるぞ」停車とほぼ同時に、北川はドアを開けた。杉野も続く。  コンビニ前には誰もいない。  公衆電話に杉野が近づく。 「まだあるんですね。こんなの」気が付かなかったと杉野。 「皆が皆、携帯電話持ってねえよ」北川が面倒臭そうに答える。  つっけんどんな北川に杉野は横にらみで返す。小池は「はあ」と溜息をついた。 「ああ、あそこに誰かいますね」コンビニの横、奥の方に黒い影があった。 「なんだよ、いるのかよ」北川が残念そうな声を出す。 「え」杉野が北川の顔を見る。 「なんでもねえ」ぶっきらぼうに応える北川。はあと溜息をつく小池。 「え」再度北川を見つめる杉野。 「だからなんでもねえって。気にすんなよ」北川は声を荒げた。  五十歳くらいの男が目を閉じぐったり項垂れている。アルコール臭が強い。スーツ姿だが、今道に倒れた汚れ方ではない。  近づくごとに酒の臭いと土臭いような、カビ臭いような臭気が鼻をつく。小池は息を止めて近づくが「ぷはっ、だめだっ」と身体を反転させた。 「早く確認しろよ」北川は近寄ろうとしない。 「もしもし、もしもうし」距離をおいて小池が呼びかけても反応がない。 「おい、こいつじゃあないんじゃねえのか」  たしかに、と小池が頷く。「周りには誰もいないし、これじゃあ要請した人もどこにいるのか分からないですもんね」 「こいつじゃないんだよ。ほれ、迷惑そうな顔してるじゃねえか。違うんだ、帰ろう」 「あ」杉野が声を上げた。 「どした」 「目が開きました。何か言いたそう」 「ほっとけ、そいつは違う」 「電話したのは、あなたですか」  小さく何度も頷く男。北川がちっと舌打ちする。反射的に杉野が北川を横にらみする。 「酔っぱらって気持ちが悪くなったんだべな、たぶん」 「そうか、そうだろう、そうに違いない、酔っ払いは病気じゃねえよ、帰るぞ」  男が慌ててように首を横に振る。「い、いやいや、だめです、連れてってください」 「どこに」 「び、病院、入院できるところへ、連れてって」  男は野口秀男と名乗った。路上生活だという。 「脈拍とか特に異常はねえぞ。顔色も、汚ねえだけだ」 「お、おれ、大企業の課長だったんですよ。でも、会社がおこした不祥事の責任をとらされて、退職したんです。そ、それで、今は、こうなって」 「だからなんだよ、訊いてねえよそんなこと」 「び、病院」 「でも、あなた、治療費、払えるの?」  男がうつむく。 「なんで黙り込むの?」 「腹、減ってるんじゃねえのか、あ?」  野口は大きく頷いた。 「じゃあよ、コンビニでパン、買ってやるから。それでチャラだ。どうだ」  杉野が驚く。「そ、そんなことして、いいんですか」  たまにあるんだよ、と小池が耳元でささやく。 「そうしろ」と北川がコンビニに入ろうとしたとき、野口が「い、いらない」と声を出した。 「なんだ、話せるじゃねえか、だったら自分で病院行けよ」 「あ、ああ」言葉にならない。 「どこか診てくれるところ、ないんですか、可哀想」 「じゃあ杉野、お前、こいつと結婚してやれ」  ギットきつい視線を北川に向けた杉野。「それとこれとは関係ないです」  小池がハラハラしながら北川と杉野を交互に見つめる。 「まあいい、しかたねえから病院に連れてってやる。後は知らねえぞ」  え、と戸惑う杉野を無視し、「収容準備だ」と言った。  病院に搬送の連絡をした北川は「こいけっち、やってくれい」と威勢よく声を上げた。  タクシーじゃねえよとぼやきながら、小池は車を発進させた。  野口を看護師らに引き継ぎ、救急隊は帰路についた。 「よく引き受けてくれましたね、病院」 「なんで」 「え」 「なんで引き受けないって思ったんだ、え?」 「い、いえ、支払い能力が」 「馬鹿野郎、とりあえず診察はする。入院させるかどうか、あとは知らねえ、病院の問題だ。もっともホームレスってだけで、ベッドがないとか専門の医者がいないとか言って診察もしないで受け入れを拒否する病院はたくさんあるけどな」 「いい病院なんですね、あそこ」 「あそこはいいのが普通なんだよ、馬鹿野郎」 「バカバカ言わなくたっていいじゃないですか、意地悪」 「うるせえ」  車の中はしばし沈黙が支配した。 「でも、いままでどうやって生活をしてたんでしょうね」杉野が呟く。 「やってみればわかるさ」北川は吐き捨てるように言った。 「やったこと、あるんですか」杉野が身を乗り出す。 「ふん、内緒だ」 「過去のことはわたし、気にしませんから」 「ねえよ、馬鹿野郎」 「でも、治療費はどうするんですかね」 「福祉が払うだろうさ」 「役所がですか」 「じゃあ、他に誰が払うんだ」 「それって税金ですよね」 「俺たちの給料も税金だぜ」  杉野は黙り込んだ。  二三日様子をみましょうと医者が言ってくれたおかげで、野口は入院することができた。  嬉しくて仕方がない。 「俺はさあ」病室のベッドで野口が看護師に話しかける。 「大企業の課長だったんでしょう」 「なぜ知ってるのだ」 「うわごとで言ってたわよ。すごいのね。で、ご家族の連絡先は?」 「ない」 「どして」 「見放されたんだ。だからこんなことになってる」 「どうしてまた」 「会社の粉飾決算とデータの改ざんがばれて、内部告発されたんだ。で、その責任を負わされて俺は会社を辞めさせられたのだ」 「会社は口止め料ってくれなかったのかしらね」 「え?」 「ふつう、くれるでしょ。これだけお前にやるから、悪いが罪をかぶってくれ、みたいな」 「う」 「なかったのね、もったいない。一千万円くらいもらったってよかったんじゃないの?」 「ああ」 「お人よしなのねえ」 「ち、治療費は、会社に請求してくれ」 「どこの会社がわからないじゃ請求もできないんだけど」 「い、言う、言う」 「あ、先生」 「一週間は入院ですよ、いいですね」 「いい、全然いい。もっとお願いします」  数日後、野口の元上司が見舞いに来た。 「どうだね具合は」 「ぶ、部長、来てくれたんですか」 「来てくれたんですかじゃないよ、一千万円病院から請求されたんだよ、テレビのドラマじゃあるまいし、どういうことなのかって確認しに来たのさ」 「医者の先生に聞いてください、わたしはただ治療を受けているだけなので」 「だよねえ。で、具合はどうだい」 「ええ、まあ、久しぶりにベッドで眠れたので、大分心は落ち着きました」 「じゃあもう退院できるだろ」 「何言ってるんですか、医者がいいって言わなきゃあダメですよ。検査だってまだあるって言われているし」 「大丈夫、大分元気そうだからその必要はない」 「あなたは医者ですか」 「何バカなこと言ってるんだ、違うよ」 「会社の罪を俺ひとりになすりつけて生き残ったくせに、口止め料も何もよこさずにことを済ませようなんて虫がよすぎるでしょう」 「なんだ、口止め料がほしかったのか」 「そうです」 「そうなのか、よし、会社に戻って検討するよ」 「やったあ」 「だめでしょう、あなた、野口さん、何言ってるんですか」 「あなたは誰」 「担当看護師です、この方は会社から理不尽な扱いを受けて、心身共に大きなダメージを受けていらっしゃるんですよ。その原因をつくったあなた方に慰謝料を請求しても誰も文句は言いません」 「いや、会社は文句を言うと思うけど」 「いいえ、会社はこの人に誠意を見せるべきです」 「でもね、元気そうだよ? 明日にでも退院できるでしょう」 「できません」 「なんで」 「一見元気そうでも、心の奥底にある人間への不信感、社会への適応力低下は簡単には治りません、内臓の働きにも支障をきたしています。目に見えない障害です」 「そうなの?」部長が野口の顔を見つめる。 「そうです」野口は大きく頷く。 「その治療のための一千万円ということか」 「そうです」野口は目を輝かせる。 「安いものでしょう、それであなた方から縁が切れるんですよ」 「口止め料でもある、か」 「いいえ、ただの治療費です。口止め料とか慰謝料とかはまた別の話です」看護師がきっぱりと言い放った。 「ええっ、まだ取るの?」 「取るのって、ねえ、部長、わたしはひと言も金くれなんて言ってませんよ」 「じゃあいいんだね、払わなくて」 「いらないなんてひと言も言ってません」 「やっぱり欲しいんじゃないか」 「人として筋を通してほしいのです」 「会社は人間じゃないから、筋は通さないよ」 「法人っていうじゃないですか、知ってますよそれくらい」 「お、いつそんなこと勉強したんだい」 「もう、話の矛先を変えないでよ。お金、払ってくださいね」 「看護師さん、それほど一生懸命にこいつのことを庇うのは、あなた、こいつとできてるね?」 「え」看護師は目を伏せ頬を赤く染めた。 「どうなんだい、白状してしまいなさい」 「い、いえ、そんなんじゃ」 「こいつは奥さんも娘もいるのだぞ」 「ええっ?」看護師ははっと顔を上げ、野口を睨みつける。 「わ、わたしをだましたのね」 「いや、だますもなにも、そもそもそんな対象だとは思っていないし」 「ひどい、わたしのこと、もてあそんだのね、あんなに一生懸命尽くしたのに」 「い、いや、そういう」 「そういうとはどういうことかね」 「わ、わかりました、お付き合いします」 「うれしい」 「違うだろ、何故いきなりそんな結論になるのだ」 「じ、じゃあ、どうしたら」 「わたしをどう思ってるの?」 「い、いや、素敵な人、だな、と」 「うれしい」 「だからあ、何をやっているのだ、お前たちはあ」 「どうしました、騒がしいですよ」 「あ、先生」 「おお先生、ちょうどいいところへ来てくれました。この患者、どうなんでしょう」 「どうなんでしょうと言われても、こうなんですとしか言えませんが」 「いや、そうじゃなくて。どんな具合で、これからどういう治療が行われるのでしょうか、ということです」 「ああ、だいぶ心身が衰弱していますね、なんでも原因は会社にいたころのことにあるらしいですね」 「本当に?」 「はい」 「野口君、君が言わなくてもいい」 「てへ」 「あなた方はこの方の面倒を見る責任があると思われますが。どうするおつもりですか」 「いやあ、そうは申されましても、この人はもう辞めた人間ですからなあ、責任と言われましてもねえ」 「粉飾決算とデータ改ざんの責任をひとりで取らされ、退職せざるを得なかったそうですねえ」 「ああ、ひょっとして、あのことを言っているのか」 「へい」 「なんだよ、へいって。あのですね、粉飾決算というのは、こいつ、忘年会の決算報告を誤魔化して報告したのです。自分の分だけタダになるように仕組んだんですな」 「はい?」 「データ改ざんは、会社の事務用品を私物化し自分の家に持ち込んで使用していたのを、会社で使用、廃棄したように帳簿を改ざんして処理していたんですよ。全くせこいヤツでしてね。そんなこんながばれてしまい、皆から非難を浴び、居辛くなって会社を辞めたんですよ」 「そうなの?」看護師と医師が片眉を上げて野口に迫る。  野口はきっぱりと首を横に振った。「忘年会のことは、課長の分です。あなたはこれまで自分の分を払ったことがないじゃないですか。いつも皆で負担しているんです。事務用品は、課長の指示です。わたしに廃棄したと手続させ、持ち帰った事務用品は自分の子供に使わせていたんだ。公私混同甚だしい。我慢できずに訴え出たら『お前が辞めろ』だ。ふざけるなあっ」  看護師は大きくため息をつき、がっくり肩を落とした。 「どっちもどっちだわ。みみっちい人たち」と呟くと、すたすたと病室を出ていった。                              (了)
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