長い高校生活

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長い高校生活

  令和2年、新型コロナウイルスの流行の猛威が世界を覆い、多くの学校が長期にわたる休校措置を採ることとなった。昭和20年(1945年)以来の大事件である。当然、授業実施は遅れに遅れた。政府は9月に入り、令和3年(2021)3月までに予定通りの授業を終わらせるのは不可能であると結論付けた。多くの高校生はそれを知らずに生きていて、都立亀戸高校3年生の岩城和人(いわきかずと)も例外ではなかった。政府内での極秘の検討会が続いた。令和2年11月、首相は決断を下した。  令和2年11月23日。この日は勤労感謝の日で祝日だから、小売店や公共交通機関の一員あるいはトラック運転手などとして働いていて未だに遠出せざるを得ない社会人たちも家にいた。だからこそ、この日が選ばれた。午前8時頃、岩城が自室で漫画を読んでいると、父親が何か言ってきた。また偉そうに命令してきたな、と岩城は思う。もう一度聞くと、どうやら父親は「国営放送を付けろ」と言っているらしかった。岩城がリビングに出てきてテレビを付けると、国営放送のキャスターが深刻な顔をしている。男性アナウンサーが偉そうに新型コロナウイルスについての既に何度も聞いた情報を偉そうに講釈しているが、女性キャスターはしばしば「なるほどぉ」と相槌を打っている。国営放送は結局のところ女性を差別しているじゃないか、いつも男性が講釈して女性がうなずかされるスタイルだ、と岩城は思う。昭和生まれはどうしようもない連中だと思わずにはいられない。数分後、私服姿の女性アナウンサーは退場させられ、何の面白みもない真っ黒なスーツを着た男性アナウンサーだけが画面に残った。ますます深刻な表情をしている。「これより、首相の会見が始まります。重大発表に関する予告です。重大発表に関する予告です」とアナウンサーが伝える。画面が切り替わり、「首相官邸から生放送でお伝えします」と現地の記者が言った。岩城がスマホでTwitterを見ると、「事実上の交戦状態に入れり」など、アジア太平洋戦争に絡めたネタツイが多かったので少し笑った。首相が「今の高校3年生は来年3月に卒業できません。4月以降も高校生をすることになります。詳細については、正午からの緊急放送でお伝えします」と言った。Twitterに集中していたが3秒遅れで聞いた岩城は真顔になった。「は……?」混乱して当然だ。リビングで一緒にテレビを見ていた父親も驚愕している。Twitterでも、ネタツイよりも絶望や困惑を率直に表現したツイートが目立つ。  結局、午前9時頃、午前10時頃、午前11時頃に同じ映像が再放送された。多くの日本国民は正午からの放送を待っていた。混乱を避けるために、午前11頃から午後1時頃まで急遽閉店とするスーパーが続出した。また、公共交通機関についても、列車やバスを駅や停留所に停車させ、正午からの緊急放送を音声だけでも流すと決めた会社が多かった。ほとんどの人が外出を自粛しているのでテレビ局的においしい画は撮れていないが、多くの国民の心がざわめいていた。   正午。ついに重大放送が始まった。「新型コロナウイルスの流行により、私たちは来年3月に今の高校3年生を卒業させられなくなってしまいました。しかし、むしろ、これを好機として、学制を改革致します。高等学校、高校ですけれども、これを5年制とします。大学などとの調整については未定ですが、政府として責任をもって対処して参る所存であります。これからもセンター試験を実施することとしますが、これからのセンター試験は高校4年生の秋に行う方針です」と首相。アナウンサーが「高校が5年間に伸びるということですね。そして、センター試験は高校4年生の秋にやることになる、と」と補足する。岩城もその両親も、リビングでテレビを見てから真顔のまま沈黙していた。岩城が「なんか……まだまだ高校生活が続くみたいだね」と切り出した。  岩城にとって今までの高校生活は苦痛でしかなかった。友人など一人もいなかった。ただむなしい日々を過ごしていた。大学なんてしょうもない場所だと考えているが、それでも高校からの解放を待ち望んでいたことは変わらない。母親が「それなら、他の高校に転校するのはどう?」と言ったのを聞いて、岩城はまた驚くこととなった。「どうって……。そんなのできるのかな」と返すのが精一杯だ。父親が「まあ確かに、それも良いかもしれないな。そもそも、今までの高校は3年間で余りにも多くの知識を詰め込んでたんだよ。当然、そんなだから数学や英語が全く分からなくなる生徒も出る……。」と言う。訝しむ岩城に「これでも、若いころは高校で非常勤講師をしてたんだ」と父親が告げた。「今までの大学入試は私立中高一貫校のボンボンが有利すぎた訳だが、高校が5年間に伸びてセンター試験が4年生の秋に延期されるなら話は別だ。これからの高校生がうらやましいなぁ。案外、そのおかげでお前が東大なんかに合格したりしてな」と父親が笑って続ける。東大に合格するかどうかはともかく、勉強が楽にはなるだろうと岩城も笑った。母親も「父さんの友達は今でも高校教師をしてるし、新しい転校システムが決まったら教えてくれるでしょう」と言って笑った。なるほど、転校したら今よりは幸せになれるかもしれないと岩城は考える。  令和2年12月。政府は矢継ぎ早に方針を決定し、国民に知らせた。一連の高校改革は、外出自粛を続ける国民にとってのエンターテイメントでもあった。高校生やその親でなくとも、やはり大改革は興味深いものだ。そんなわけで、政府は外出自粛を続ける国民を楽しませるためにも来年4月からの高校についての情報を大々的に宣伝した。その為、岩城も父親から聞くまでもなく、新しい転校システム、つまり新編入学制度について知ることができた。これからは特別な事情が無くても他県の公立高校への編入学が認められることとなった。編入学試験の出願締切は令和3年1月31日で、2月の中頃に編入学を希望する高校の校舎で受験すれば良いと決定されてすぐ、岩城は出願を決めた。両親に「転校するよ。もう東京の高校に通うのは嫌になったし、千葉県か埼玉県の県立高校に行きたい」と打ち明けるには勇気が必要だったが、こうして岩城は新しい高校での新生活を始めることとなった。  令和3年2月10日の午前7時、岩城は都立亀戸天神高校のブレザーを着て、新京成線三咲駅のホームへ降り立った。目的は勿論、編入学試験。駅を出て東へ10分ほど歩いていくと、目的地の県立船橋三咲高校に着いた。やけに真新しい校舎だが、岩城はその理由を知っている。今までは駅の西側にあったのだが、高校が3年間から5年間に伸びたので、敷地面積も教室も足りなくなったのだ。それで急遽、4階建ての新校舎が作られたという訳だ。4月に向けて全国で高校の敷地面積を急いで拡大すると共に新校舎を突貫工事で建設している為、一気に建て替えることはできない。こうした事情がある為、県立船橋三咲高校ではこの4月から新校舎を使うのは3年生から5年生までで、1年生と2年生は引き続き駅の西側の旧校舎を使うことになっていた。もっとも、令和3年度はまだ5年生がいないので、1・2年生は旧校舎、3・4年生は新校舎と半々に分かれることとなるが。  岩城が試験会場の教室に入ると既に教員が教壇に立っていて、試験の説明を始めていた。慌てて指定された席に座る。教室にいる受験生は岩城を含めて6人。それに対し、4年次編入学の定員は10人。岩城は全員合格もあり得るなと思いつつ、油断したらまずいと気を引き締めた。教員が「皆さん募集要項をちゃんと読んでいると思いますが、もう一度言いますね。今年度の試験科目は国語、英語、数学の3教科だけです。試験時間はそれぞれ50分間で、国語は7時30分から8時20分まで、英語は8時30分から9時20分まで、数学は9時30分から10時20分までです。緊張しすぎずに頑張ってください。いまのうちにトイレに行っておいてください」と案内する。岩城もトイレへ向かった。さすが新校舎、トイレもきれいで広い。これなら快適だし、不合格になって4月からも都立亀戸高校に通うのは嫌だと岩城は心の底から思う。試験会場に戻ってから10分後。もう7時30分だ。「解答はじめ!」と教員が国語の試験開始を告げた。  生徒40人分の机と椅子が並ぶ普通教室をわずか10人の受験生が使っているのだから、新型コロナウイルス対策は万全だ。しかし、岩城はもちろんそんなことを考えている場合ではなかった。ひたすら問題を解いていく。  10時20分に全教科の試験が終わったとき、受験生たちは疲れ切っていた。あと2年間は高校に通うのだからなんとしても編入学したいと願っているのだから当然だ。岩城も例外ではなく、とぼとぼと三咲駅へ戻った。北習志野駅で地下鉄に乗り換えて東京へ帰る。江東区南砂町の自宅に帰った時には疲れ切っていた。果たして合格しているのか否か、緊張と疲労が岩城を苦しめた。  翌日、つまり令和3年2月11日。この日も祝日だが、岩城が午前9時に県立船橋三咲高校のWEBサイトを見ると、自分の受験番号があった。合格だ!両親に合格を告げ、岩城は両親に見守られながらWEBサイトに身長、体重、胸囲などのデータを入力し、制服を注文した。今までの制服はブレザーだったが、県立船橋三咲高校の制服は正統派中の正統派である。男子は学ラン、女子はセーラー服だ。しかも、4年生以上は男女ともに白線が2本入ったこれまた正統派の学帽を被って良いことになった。もちろん岩城は学帽も注文した。学ランに学帽という超正統派制服を着た自分を思い描き、岩城はとてつもない喜びを感じた。  正午には、首相が再び記者会見を開き「新年度から学校のオフライン授業を再開します。首都圏や関西圏では4月から再開し、問題が無ければそれ以外の地域でも5月から再開します」と宣言した。オフライン授業とはおもしろい表現だ。ある種のレトロニムかもしれない。新型コロナウイルスが流行する前は通信制の学校以外はオフライン授業が普通だったのだから。ともかく、3月末には制服も届き、岩城は晴れて県立船橋三咲高校の4年生になった。  令和3年4月12日(月)、初めての登校。新型コロナウイルス流行前よりはマシだとは言え、東京の地下鉄の朝はとんでもなく混雑する。しかしそれは上り電車の話。下り電車で通学することになった岩城は満員電車から解放された。地下鉄電車は座席に空きを残したまま、北習志野駅へ到着した。それから新京成線の小ぶりな車両で三咲駅へ。駅を出て東側へ向かって歩いていく途中、新校舎へ向かう生徒、つまり3年生か4年生のはずなのに真新しい学ランを着た岩城は他の生徒から注目を集めた。転校生だとバレバレだ。  県立船橋三咲高校4年2組。ここが岩城の新しい居場所だ。試験会場の教壇にいたのと同じ教員が担任らしい。「しかし、まさか高校が5年間に伸びるなんてな。それじゃあ、転校生の自己紹介といこう」と教員もテンションが高い。岩城は教壇に立ち「東京から転校してきた岩城和人です。よろしくお願いします」と言った。席に戻ると隣の席の男子が陽気に話しかけた。「よろしくゥ!佐藤一真(さとうかずま)っていうんだ」と。岩城は引きつつも話しかけられたことに安堵し「よろしく」と返した。ワイワイガヤガヤ教室中が盛り上がる。  「いきなり高校生活が5年間に伸びて、白線入りのかっこいい学帽もできて、その上転校生まで来たんだからテンションが上がるのは分かるが……。屋内で学帽を被るのはやめなさい」と担任が注意すると、佐藤を含む学帽を斜めに傾けて被ってはしゃいでいた男女があちらでもこちらでも慌てて学帽を机に置いた。どうやら、ヤンチャな連中にも怖がられる教員らしいなと岩城は察した。  政府の方針で、授業は2年生の1月あたりの分からやり直しだ。とは言え、県立船橋三咲高校はそこそこの進学校なので、5月には旧カリキュラムで言う3年生の内容に入った。岩城は何人かの友人を得て幸せだったが、部活動には所属しない状況が続いていた。佐藤は岩城を部活に入れたがっていたのだが、まずは久しぶりのオフライン授業に慣れるのが大切なので、誘わなかったのだ。  令和3年5月13日(木)、とうとう佐藤は岩城を部活に誘うことにした。「なあ岩城。俺の部活に……社会科学研究会に入らないか?」と急に聞かれた岩城は「部活かあ……。転校生だし……。」としか答えなかったが、佐藤は「センター試験は秋なんだし、夏休みまでだけでも参加しないか?」と続けた。岩城も参加する気になってきた。「この4月にいきなり教員主導で社会科学研究会が作られた高校も多いらしいが、うちは違うぜ。10年も前からある部活だよ」という佐藤のセリフが決め手となり、岩城は社会科学研究会に入部した。  社会科学研究会には意識の高い生徒が集まるものだ。岩城はさっそく教養主義の洗礼を受けることとなる。同日放課後、喫茶店で活動が行われ26人の部員が集まったのだが、佐藤が「ドイツ観念論の中で一番好きな哲学者は誰だ?」と聞いたとき、岩城は「ドイツ観念論って何?」と聞き返してしまったのだ。それで3年生以下の下級生に「岩城先輩ってドイツ観念論すら知らないんですか」とはっきり言われてしまったのである。佐藤が血相を変えて「おい、さすがにドイツ観念論くらいは知ってると思ってたぞ」と岩城に怒った。それで、岩城はドイツ観念論を代表する哲学者―イマニエル・カントやヨハン・ゴットリープ・フィヒテ―の本を急いで読むこととなった。こうして次第に岩城も誇り高き教養主義を受容し、立派な知識人になっていったのである。自然と佐藤との友情も強くなっていった。  佐藤は岩城に「うちの社研は毎年7月に弁論大会をやってるんだ。三咲に弁論部はないし、弁論部を兼ねてる感じだな」と言った。「最近は哲学書にも慣れたみたいだし、弁論大会に出ないか?」と続けると、岩城は「もちろん参加させてもらうよ」と笑顔で答えた。佐藤も我が意を得たりとニコニコ笑う。「お、お互い全力で行こうぜ」と岩城が続けて別れた。 岩城たち4年生は勉学に部活に励んだ。6月上旬には4年生以上を文科と理科に分けることが決まったが、岩城は文科、佐藤は理科を選んだ。同じ4年2組とは言っても文科と理科とでは受ける授業が異なる為、一緒に受ける授業は減ったが、岩城と佐藤の友情に変わりはなかった。文科の生徒は学ランの詰襟かセーラー服の左胸にLiberal-ArtsのLの徽章(きしょう。バッジのこと)を、理科の生徒は学ランの詰襟かセーラー服にScienceのSの徽章を付けることとなったが、岩城と佐藤は4年2組のスターとなっていった。  6月下旬に若い博士が教員として赴任すると、社会科学研究会と岩城、佐藤の人気はますます過熱した。この博士は10年前、卒業を前にした3年生の7月に社会科学研究会を創設した伝説の卒業生であり、しかも必修科目とされた「学術入門」という科目を担当した為、大いに盛り上がったのである。  とうとう社会科学研究会弁論大会の日がやってきた。時は令和3年7月19日(祝)である。約1280人の全校生徒が旧校舎の大講堂に集結している。昨年までは普通の大会だったが、今年は学校を挙げてのイベント扱いである。  思い切って転校してきて本当に良かった、と岩城はしみじみ思う。旧校舎の大講堂に来たのは初めてだが、なぜか居心地が良いとすら感じていた。  司会を務める2年生の社研部員が出場者を紹介する。「今回の弁士は6名です。4年2組理科の佐藤一真君、4年2組文科の岩城和人君、4年5組文科の鈴木佳織君、3年3組の上野櫻子君、3年6組の小暮健太君、3年8組の奥野良悟君、以上6名。まず全ての弁士に対し拍手をお願いします」拍手が続く。「去年までは3年生のみ、弁士3人の弁論大会でしたが、今年からは3年生以上、各学年弁士3人の大会となりました。来年は今の4年生の方が5年生になるので9人も弁士が登場することになります。ますます盛り上がる社会科学研究会をどうかよろしくお願いします」と司会が続けると校長が壇上の鐘を鳴らした。  副校長が「弁士の持ち時間は1人15分です。15分を超えるとベルを一度鳴らします。17分を超えるとベルを二度鳴らします。20分を超えるとベルを乱打し強制終了とします。終了後、5分の質疑応答時間を設けます。質疑応答時間が終わってから次の弁士の弁論が始まるまでに、10分の休憩をはさみます。分かっているでしょうが、くれぐれも野次は飛ばさないように」と注意した。そして、校長が「それでは諸君、がんばれ!」とにこやかに宣言するとさっそく1人目の弁士である佐藤が登壇した。司会が「佐藤君の弁論は『新型コロナウイルスと現代資本主義』です」と告げて佐藤の弁論が始まると、さすがというべきか聴衆たる全校生徒が聞き惚れていく。これはすごい、と慣れない岩城でも気圧されるほどだ。自信に満ちた佐藤の態度は野次を許さなかった。次に岩城の弁論『ドイツ観念論の栄光と挫折』が始まったが、一部の生徒から野次られてしまい、散々な結果に終わった。劣勢を悟った岩城だったが、それでも一応最後まで語りきっただけ良しとしよう、と思うしかなかった。残り4人の弁論も明らかに岩城の弁論より上手かった。審査員による点数は6人中6位。岩城は敗北した。いくら転校生とは言え、下級生全員に負けた事実は余りにも屈辱的である。  しかしその時、佐藤がマイクを握り「全ての弁士に拍手を!」と言ってくれた。そのおかげで全校生徒の拍手が大講堂に満ちた。これがどんなに岩城を勇気づけたことか。大講堂を出た後、「とりあえず、しばらくはセンター試験に集中しないとな。来年また弁論大会に出ようぜ」と言った佐藤に対し岩城は泣き笑い感謝した。青空が岩城に微笑みかけていた。岩城の高校生活はまだ長い。
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