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噛みしめるように、緩い斜面をゆっくり上る。南中を過ぎた太陽は、真夏程の圧力はない。それでもアスファルトの照り返しを受ければ、滲んだ滴が肌表面の粗い溝を流れ落ちて、押さえたハンカチの色を濃くする。
「……ふぅ」
思わず溜め息が漏れて、苦笑いする。
60を越えた老体には、この坂はいささかキツい。道路脇に等間隔で植樹された桜の木陰で足を止め、汗を拭う。深呼吸すると、微かに潮の香を感じ、振り返る。坂道より遥か下方に、紺碧の海が広がっている。尾を引くような甲高い声が降ってきて、仰ぎ見れば、白い翼を光らせながら、カモメが数羽、青空を滑らかに泳いでいった。
あと2年したら、退職金で、この近くに家を買う。既に幾つか目星は付けてある。そうすれば、もう少し楽に会いに来れる。
額の汗をハンカチで拭い、左手の新聞包みを右手に持ち代える。卵形した紫色の花達が、紙の中で囁くように小さく揺れた。
「さて、と」
坂道に向き直る。桜3本分を上って、通路の端から8番目――そこで、彼女は待っている。
飛び交う海鳥の声を背に、僕は梢の陰から踏み出した。
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