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   風が頬に触れた。  はっと臨は目を開けていた。  夢だ。 「気がついたか?」  声の方に目を向けると細く開いた窓に寄りかかるようにして人影がこちらを見ていた。  冷たく湿った風がカーテンを揺らしている。  部屋の中は暗い。  カーテンの隙間から見える外は薄闇だった。車のヘッドライトがちらちらと見える。  その人のなめらかな頬の輪郭を舐めるようにライトが横切った。  そうだ、自分は── 「オルカ…」  声はひどく掠れていた。暗がりに溶け込んだオルカの顔はよく見えない。  臨は起き上がり、あたりを見回した。くらくらと目眩がした。  ここは…  見覚えのある窓、外の景色、窓辺の床に積み上げられた本。毛足の短いカーペットの知っている手触り、壁に寄せたベッド、脱いだままの部屋着、朝起きたそのままの部屋の中。  自分の部屋だ。  間違いなく、自分の部屋だ。  どうやって帰り着いたのか。  それにどうしてこんなにも暗いのか。一体、今、何時だ? 「なんでここに……」 「臨が私をここに連れてきたんだ」  俺が?と咄嗟に臨は返した。 「どうやって?」  外の通りを車が走り抜けた。水溜りを撥ねるその音に雨はまだ降っているようだと思った。 「きみは誰だ?」  彼女は薄く笑った。  名乗る前から臨の名を知っていた。  この世界にあるはずのない力を目の前で見た。  当然のように身を挺して自分を護ろうとする。  知らないはずなのに、何故かはずの誰かの面影が重なって離れない。  知らないはずだ。  でも彼女は自分を知っている。 「私は分たれた世界から皇帝の使者として来た者、オルカゲインだ」  皇帝の使者。  分たれた世界?  それは一体何の話だ。 「世界はひとつではない」  混乱する臨の考えを読み取ったかのようにオルカは言った。  闇の中で、緑の目が一瞬閃いた 「今私とおまえがいるこの世界は、門を境界としてもうひとつの世界と繋がり成り立っている。私はその門の向こうの世界、シイから来た」 「何の冗談…」 「冗談?」  ふっとオルカが訝しげに眉を潜めた。 「だって、そんなの、信じられない」  沈黙が落ちた。ピンと張り詰めた空気が部屋に満ちる。  静かな声でオルカは言った。 「先ほど見たものの全てを、おまえは冗談だと思うのか?」 「それは──」 「おまえが傷ついた痛みも、感じた恐怖も、あれほど逃げなければと思ったことも、全てがまやかしだと?おまえを殺そうとした奴のことも?」  臨は返す言葉がなく口を閉ざした。  違うと分かっている。  そんなわけはない。身に纏う湿った服や、オルカの存在が、あれは現実だったと証明している。  あの恐怖は本物だった。 「こんな話を聞いて、おまえが混乱しているのは分かっている。だが私は──」  オルカの声がそこで途切れ、ぐらりと体が床の上に頽れた。 「え…?」  窓から吹き込んだ風に濃い血の匂いが混じっている。そこでようやく臨はオルカの腕が切り落とされていた事を思い出した。  ザッと血の気が引いた。 「オルカ⁉︎」  抱き起こした体が冷たい。全身が小刻みに震えていて、臨はそのままオルカを抱え上げ、浴室へと駆け込んだ。  浴室の床に下ろし壁に寄りかからせ、熱い湯を頭から浴びせた。茶色く濁った水が排水溝に流れていく。オルカの体は血や泥でひどく汚れていた。シャワーを握っている自分もひどい有様だった。右側が特に血に染まっている。そういえば右肩を斬られていた──  けれど痛みは感じなかった。 「…痛むか?」  気配を感じたのか、薄く目を開けてオルカが言った。 「大丈夫だよ」  まるで傷なんかなかったかのようだ。  あんなに痛かったのに。 「っ…」  オルカの体が折れ、左腕を胸に抱え込んだ。右手の指が白くなるほど自分の二の腕に爪を立てている。 「オルカ、腕見せて」 「やめろ」  腕に食い込む指を剥がそうとする臨の手をオルカは払った。顔は苦悶に歪んでいて、息をするのもやっとのようだ。 「見るな臨。平気だ、すぐに元に戻る…!」 「何言ってんだよ!そんなわけないだろ」  臨はオルカが力を抜くまでその指を離さなかった。オルカが息を詰め、抵抗したが、やがて観念したのかゆっくりと力が抜けて指がほどけた。  ほどけた右手をそっと避けて、臨はふくらみのない袖を捲くった。オルカはされるがままに浴室の壁に寄りかかっていた。  左腕は肘のすぐ下から落とされたはずだ。  白く細い腕の傷口があらわになった時、臨は息を呑んだ。 「──」  血のこびりついた皮膚、赤く爛れた肉の断面から、そこにある筈のない白い指の先が飛び出していた。押し出されるように、蠢き、もがいていた。  指が、肉の間から生えている。 「なんだよ、これ…」  痛みに目をきつく閉じたオルカの体が、細かく痙攣を繰り返した。  薄く笑ってオルカは言った。 「呪いだよ」 「呪い?」  見返した臨を、まぶたを上げたオルカは正面から見つめた。 「私にはどんな姿になっても死ぬことは許されないという呪いがかかっている。たとえ細切れになっても体は再生していく」 「どんな…?」 「そうだ」  たったひとつの肉の欠片になっても。  だが痛みは同じだ。失ったものを取り戻すのだから。  うごめく指先が、見る間に傷口から押し出されていく。ゆっくりと指のつけ根を現した。そして手のひら、手首と、オルカの中から真新しい腕が出てくる。  魔法のように手をかざせば元に戻るのではないそれは、ひどく生々しく、生を掻き毟るような業火のようだ。臨は目を逸らす事が出来なかった。胸に炎を抱え込むように体を丸めてオルカは痛みに耐えていた。見るなとうわ言のように何度も言った。いないほうがいいのだということは分かっている。けれどこの痛みは、自分の為に負ったものだ。あるいは自分がそうであったかもしれないのだと思うと、臨はオルカの傍を動くわけにはいかなかった。 「…──ッ!」  あとわずかというところで、オルカが堪え切れない悲鳴を上げた。鋭い叫びの後、倒れてきたオルカを臨は受け止めた。  オルカの腕は再生していた。  大丈夫か、と臨が問うと、オルカは荒く息を吐きながら小さく頷いた。  臨はゆっくりとオルカを壁に寄りかからせた。 「なにか着れるもの探してくるよ」  臨は部屋に戻りクローゼットを引っ掻き回して適当なものを探し出すと、バスルームへと戻った。  オルカは浴室の壁に凭れたまま、シャワーに打たれていた。 「動ける?」  シャワーを止めて臨が言うと、オルカは薄く目を開けた。 「着替え、とりあえず着られそうなものあったから。それ脱げるか?自分で出来る?」  問いかけに返事はなく、臨は無理そうだと思った。なにかないかと思案し、思いついて部屋に戻りベッドのシーツを剥いだ。これでどうにかなるか。  浴室の明かりを消した。シーツでオルカを覆う。 「これで見えなくしてやるから、いい?」  目を閉じたまま、おかしそうにオルカが笑った。 「随分と気を遣うな」 「あたりまえだろ女の子なんだし、見たらまずいだろ」  オルカが不思議そうな顔で臨を見ていた。 「…女の子だろ?」  言いながら湯船に湯を張るために壁のスイッチを押した。顔色は戻ってきたが、もう一度ちゃんと湯の中で温めたほうが良さそうだった。  オルカは言った。 「私は女じゃない」  一瞬の沈黙の後、え?と臨が聞き返す。 「だが、男でもない」  男でもないって、と臨が声に出さずに呟いた。 「不死の呪縛ですべてを私は失っている。時間も性別も…だから見られても構わない」 「でも前は…女の子だろ?」  思わず臨は聞いていた。  オルカは少しばかり驚いたようだった。 「さあ…随分と昔のことだ」 「…随分って、その姿は本当じゃないのか?」  ずっと引っかかっていた疑問を臨は口にした。  見た目は11歳くらいなのに、それにそぐわない言動と物言いは最初から違和感があった。ああ、とオルカは言った。 「これは退行した姿だ。普段はおまえとそう変わらない」  呪いを受けたときにすべてを失ったとオルカは言った。  時間も。  ふと本当の歳を知りたくなった。 「どうした?」  臨は首を振った。  他意のない問いかけだったが、それを聞くのはひどく悪いことのように思えた。暗がりの中で言葉を探していると、湯船に湯が入ったと場違いに機械的な音楽が鳴った。  洗濯機の中にオルカが身に着けていたものをすべて入れボタンを押した。水の流れる音がして洗濯が始まると、臨はバスルームを出た。そっとドアを閉める。  ベッドの上で体を丸めてオルカは眠っていた。  棚の上の置き時計を見ると、19時を過ぎていた。あれからもう9時間、あの場所からここまでどうやって来たのか、結局は分からないままだ。  臨は汚れてしまったカーペットを、ベッドサイドの明かりだけで床から引き剥がして出来るだけ小さく折りたたんだ。使い物にならなくなった服と一緒にゴミ袋に詰め込んで、ベランダの窓を開けて外から見えない場所に置いた。  コンロにケトルをかけた。火をつけると、ぱちぱちとガス点火の独特の音がして青い炎が立ちのぼった。  なにか食べておこうと鍋も火にかける。  空腹を感じていた。あれから何も口にしていないのだから当然か。  とりあえず、ふたり分作ることにする。  流しの中には今朝使った食器がそのままになっていた。覗き込んだシンクの中に、洗いっぱなしの髪の先からぽたりと雫が落ちた。  あれから臨はオルカを四苦八苦して湯につけた。あとは自力でどうにかなるとオルカは言い、その言葉通りにしばらくしてバスルームから出てきた。水を飲ませると、力尽きたのかそのまま気を失うようにして眠り込んでしまったのだった。  それだけ疲弊していたのだ。  あんな小さな体で。  今はタイコウしているから、とオルカは言っていたが、あまりにもさらりと言われてしまったので、それがどういうことなのか臨には分からない。  なぜ助けてくれたのか。  自分の体を失っても守るのは普通じゃない。  見たこともない力、皇帝、世界の門、もうひとつの世界。  信じられない話だ。  けれど一番不思議なのは、なぜか案外すんなりとそのことを受け入れている自分だった。  まるで夢の続き。  これは夢なのかもしれない。  雪平の中で米が柔らかく煮えていくのをぼんやりと見つめた。取り出した葱をまな板の上に置いて切っていく。手慣れた作業。右手に持った包丁はいつものように使えている。肩の痛みはまるでない。  臨はシャワーを浴びた時に鏡で見た光景を思い出す。鏡の中の自分には、どこにも傷などなかった。 『…嘘』  何もなかったかのように。 「……」  沸いた湯で濃い目の緑茶を淹れた。ティーバッグの買い置きだったが、それでもひどく美味しかった。狭いキッチンの壁に寄りかかり、湯気を上げてことことと煮る鍋を見ながら、首から下げたタオルで髪を拭った。手に持った湯飲みから伝わる温かさに息をついた。  ポケットに手を入れて携帯を取り出した。それは服の中で濡れてしまっていた。何度か起動させようとしたが動かなかった。  壊れてしまったのかもしれない。  シンクの横に置いた。  しばらくして出来上がった粥を少しだけ味見のつもりで茶碗によそおって、立ったまま食べた。腹の中がじんわりと温まってくる。美味しい、と頬が緩んだ。自然と口元が綻んで、そういえば誰かのために食事を作るなんて久しぶりだと臨は思った。  ひどい夢にうなされているようだった。  肩を揺するとオルカは目を開けた。 「大丈夫?」  覗きこむと、跳ねるようにオルカはベッドの上に身を起こした。 「…どれくらい経った?」  臨は宥めるように少し笑った。 「2時間ぐらいかな」  時計は21時を回ろうとしていた。そうか、とオルカが小さく息をついたのを見て、臨は言った。 「なにか食べる?俺は待ちきれずに先に食べたんだけど」  返事を待たずに、さっさとキッチンから粥の入った鍋と茶碗と木匙を持って、ベッドの側のローテーブルに置いた。眺めていたオルカを促して座らせ、湯気を上げる粥をよそおって、目の前に差し出す。オルカはそれを両手で受け取って、じっと茶碗の中身を見た。 「粥?」  一目見てオルカは判ったようだった。 「そう。なにを食べるか分からなかったし。嫌いだった?」 「いや」  渡された木匙を使って、オルカは粥をすくって口に運んだ。静かに動く口元に臨は安堵する。  ひとくち、ふたくちと続くそれを見ながら臨はふたりぶんのお茶を淹れ、それぞれの前に置いた。食べると言うよりもオルカのそれは儀式のようだった。  気がつけば、食べ物を体内に取り込むしぐさに思わず見惚れてしまっていた。 「傷はもう大丈夫なのか?」 「え?」  視線を落としたままオルカに言われて、臨は我に返った。  肩のことを言われたのだ。  臨はこくりと頷いた。 「そうか」  気配で察したのか、安堵した声だった。  訊きたかったことを問う時だと思った。思い当たることはあったが、オルカの口から直接聞いておきたかった。 「傷、あんなに痛かったのに嘘みたいに塞がっててたんだけど、あれはきみの──血を、俺が飲んだから?」  あの時の血の味が口の中に蘇る。  オルカが眠っている間に考えついたことを、臨は口にした。 「音が、なかったんだ。変なんだけど最初に会った時からオルカの声もあいつのも何も聞こえなくて、水の中にいるみたいで、なのにきみの血を飲んだら、何もかも聞こえ始めた」  ことりと茶碗が置かれる音がして目を上げると、オルカは手を合わせて祈るように目を閉じていた。  やがてゆっくりと上げられた瞼の下では深い緑色の目がすでにこちらを見ていた。 「そうだ」  静かな声でオルカは言った。 「私と臨の存在する世界は違う。接触は歪みを作り感覚を奪う。音が聞こえなかったのはそのせいで、声が聞こえなかったのは、我らの言語の領域が違うためだ。それを中和するには儀式が必要だが、あの時は私の血を分けるのが一番手っ取り早かった。無理やりにして済まなかった」  臨は首を振った。 「臨の傷が治癒していたのは、私が不死の者だからだ。その血がおまえの傷を癒したんだろう」  その言葉にふと何かがよぎったが、掴み損ねたようにするりと消えてしまった。  少しの沈黙が下り、どちらからともなく目が合った。 「ありがとう、助けてくれて」  臨は両手でくるんだ湯飲みに目を落とした。 「…礼を言うのはまだ早い」 「え?」 「これはまだ始まったばかりだ」  はっと臨は顔を上げた。  オルカの目が臨を射抜く。 「まだ何も終わっていない」  臨は息を呑んだ。頭の芯からすうっと血の気が引いていった。  暖かだった部屋の温度が一気に下がった気がした。  体が縛られたように動かない。 「あれはまた来る」 「また、って…」 「」  淡い間接照明の明かりの中でゆらりとオルカの目が光った。  視線が絡み合う。 「では、話をはじめようか」
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