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 濡れた黒く長い髪が一筋乱れ、少女の白い頬に張り付いている。  纏う衣服は滴るほどに湿っている。黒い詰め襟のような上着を腰で無造作に縛り上げていた。華奢な体に大きすぎるそれは不自然なほどで、袖を幾重にも折り曲げ、裾も足首に届いている。  裸足だ。  蝋のような白い裸足の指に泥が跳ねていた。  靴を失くしたのか?  臨は少女の顔を見た。  美しい顔をしていた。  強い意志を孕んだ目が臨を見上げている。  目が緑色だ。  そのせいで人形のようだと思った。  少女、いや──少年?  臨の戸惑いを見透かしたかのように、少女の赤い唇が動いた。  その瞬間── 「──」  臨の持っていた傘が両断された。  右肩が切り裂かれる。臨は声を上げて振り向いた。  後ろからだ。  牡丹の花に雨が降る。雨が目に入る。  何かがある。何かいる。地面に落ちた傘の残骸が粉々に弾け飛んだ。  臨は叫んだ。  気圧で耳が塞がれたかのように音が遠い。  ぐいと手首を引かれて視界が回り、肩から地面に倒れこんだ。目を上げると少女の背中があった。臨の前に立つ少女に手を伸ばそうとして、ぎくりとした。  そこにいた。  それは笑っていた。  それは人のように見えた。  しかし人ではない。  咲き乱れる花の上に浮いていたのだ。  耳の中に真綿を詰め込まれたように音は遠い。自分の声さえも。  雨足が強まっていく。少女の額にかかる髪の先からとめどなく流れる滴は頬を伝い、肩に落ちる。  少女は花の上に立つそれを見ていた。  人の形をしている。  三日月のように細めた目で笑っている。  雨がその形を避けて落ちていた。  あれは、何だ?  ──消えた。  ハッとした瞬間に少女が振り向いて叫んだ。  ──逃げろ!  そう言われたと思った。音はなく、口だけが動いていた。それは逃げろという動きではなかった。もっと短い叫び、違う言葉。違う言語だ。しかし激しい耳鳴りの奥で確かに彼女の声が聞こえていた。  逃げろ!  目の前に三日月の目が迫る。三日月の息が顔にかかった。  駄目だ。  声を上げるよりも早く、少女が臨を突き飛ばし間に滑り込んだ。右手をかざして三日月をなぎ払う。牡丹の花が舞った。笑ったその顔は少女の一撃をギリギリで躱して後転した。見えない足場があるかのように宙でしゃがみ、三日月はニタリと嗤った。 「──」  何かを言った。が、臨には何も聞こえない。唇の動きは読み取れなかった。底の知れない井戸のような仄暗い瞳孔が臨を捉えて笑っていた。  少女は臨を庇うように前に立ち、三日月を見据えたまま臨の肘を掴んだ。信じられないほどの強い力で引き上げられ、軽く押された。目配せのようにチリッとした視線がわずかに動いてこちらを見た。  行け、と言われたのだ。  臨は立ち上がった。  右肩を押さえて後ずさった。傷口から溢れた血がぬるりと手のひらを濡らす。  少女の細い右腕が、臨を三日月の視界から遮るように持ち上がった。その手の周りに陽炎のような揺らめきが立ち昇る。  行け!  同時に三日月が消えた。少女が振り向くのが見えた。臨は全力で走り出した。脚がもつれた。肩に指先がかかる。枯れ枝のような指だ。しかしすぐに離れた。少女が三日月に挑みかかる。  振り向いてはだめだ。  臨は振り切るように走った。ぬかるんだ足場に倒れこみそうになる身体を痛む右腕で支えて、泥に手をついて再び走り出した。墓の間を走り抜ける。雨が頬を打つ。濡れた石畳に足を取られた。  あっと思ったときには水溜りの中に倒れこんでいた。切りつけられた右肩が酷く痛み、右腕の感覚がない。水溜りに血が滲む。上着の下から覗くシャツの右の袖口が真っ赤に染まっていた。  吐く息が白い。  ガチガチと奥歯が鳴りはじめる。  なんだ?  なんだこれは──何が。  何が起こってる?  分からない。  考えることができない。  体の下に敷きこんでしまった水仙の匂いが場違いなほどに甘く香る。  ギイン、と空気が震えた。  水溜りに波紋が広がる。  地面についた手から痺れのような震えが伝わってきた。  重いものが擦れ合うざらついた気配。  目の前の墓石が斜めに両断される。  まずい。  動けなくなった臨の襟首を少女が掴み引きずり起こした。  直後、臨が一瞬前まで倒れこんでいた場所に目の前の墓石がずるりと落ちてきた。  その衝撃が腹の底に響き渡った。  足の裏に重い振動を感じた。  心臓がありえない速さで鳴る。  肩が上下する。  浅い呼吸に苦しくて喘ぐように息をした。開いたままの口から雨が流れ込み、溺れているようだと錯覚する。せりあがった心臓の音が耳の奥で脈打っている。  臨はその場にへたり込んだ。  少女が臨の前に回った。彼女の肩もわずかに上がり、吐く息が白い。髪は乱れ、左頬に血が一筋滲んでいた。そのまま耳朶がざっくりと切れ、真っ赤になった首筋を雨が洗い流している。  どうして、と思った。  前だけを見据える強い眼差し。  対峙する構え。  自分を守っている。  この子は俺を守ろうとしている。  なぜ?  少女の背中越しに三日月が見えた。距離を取り、少し離れた墓石の上に悠然と立っている。余裕が、手に取るように見えた。臨と目が合うとそれはひどく嬉しそうに嗤った。  全身が震えた。  得体の知れない焦燥が腹の底からこみ上げてくる。  怖い。  自分の呼吸する音しか聞こえない。  誰だ。  どうして。  どうしてこんなことに。  あいつの狙いは自分なのだ。  ではこの少女は一体誰だ? 「──」  震える自分の手を見下ろす。  泥に塗れた手のひら。  爪の中が血で赤い。  夢なんかでも妄想でもない。  駆け上る吐き気を堪え、これは現実なのだと臨は思い知った。  三日月のまわりを雨が避けていく。  見えない膜があるかのように、全く濡れる気配がなかった。  細く異常なほど長い手足。身体に張り付く黒い衣服。  瓜実顔の、縮れた黒髪が肩の上で風にあおられる。髪が顔に覆いかぶさる。その髪の隙間から歪んだ笑いで見下ろしている。  一言、三日月は少女に何かを言った。何を言ったか、相変わらず音は消失していて分からない。少女は答えない。顎を引き、身構えた姿勢を崩さない。それを見て三日月が再び嗤う。声を立てて嘲っているのが分かった。  彼らの間には通じているのだと思った。  聞こえているのだ。  自分にだけ分からない。それは彼らが同じものだという証か。  少女はゆっくりと瞬きをした。  その横顔に臨は一瞬、奇妙な既視感を覚えた。  誰かと重なる面影。でも。  どこか違っている。  しかしそれはすぐに消えた。  突如上着の中で振動がして、臨は飛び上がった。携帯の着信だった。まずいと思ったときには背後に気配を感じた。三日月だ。  やられる。  少女が振り向きざまに臨の頭を押さえつけた。右手で衝撃を受け止める。目の端に見えた三日月の手に赤黒く光る刃があった。どこから出したのか先程までなかったそれに血の気が引く。少女は素手だ。しかし受け止めた手からは透明に燃え上がる陽炎が揺らめいていた。その体勢のまま三日月を押し戻し、臨の側から離れようとしている。  少女の手のひらの皮膚がすうっと一文字に裂けた。少女がぐっと奥歯を噛みしめた。左手を添える。ても無理だ。三日月は相変わらず嗤っている。力は拮抗していた。  少女は感情のない顔をしているが、三日月に押され、泥にまみれた素足が深く土にめり込んでいた。揺らめく炎が、赤い刃に抵抗した分だけ押し返される。どちらが優勢なのか目に見えている。長く持たない。ここにいてはだめだと思った。自分を庇いながらでは彼女は力を出せないのだ。いずれ押し負ける。  考えろ、動け。この形勢を変えないと。彼女が──  臨は少女の背からじりじりと後退さった。彼女の眼差しは正面にあるが、意識はこちらにあると確信していた。迷うな。きっと合図はある。 (落ち着け)  突然少女が動いた。突如緩めた力に、受け止められていた三日月の刃がその勢いのまま押し込まれるのと少女が目の前の体に手を伸ばすのは同時だった。切っ先が彼女の身体に当たる寸前で身を躱し、右腕で三日月の首を掴み上げた。その勢いのまま地面に組み伏せる。全身で動きを封じ、喉許を掴んだ右手の陽炎が倒れた三日月の顔を一気に舐め上げる。皮膚の焦げる匂いがした。声のない咆哮が、その笑った目が驚愕に大きく見開かれていく。  今だ。  臨は走り出した。  縮れ髪が陽炎に灼かれている。どこまでもつだろう。狂ったようにのたうち回る足が押さえつける彼女の背を打つ。あと少し、もう少し。少しだけ。もともと力負けしていた、圧倒的な差に時間を稼げる余裕はもともとなかった。    臨は闇雲に迷路のような霊園を走りぬけた。  もう少し。 「!──っ」  気がついたときには遅かった。回り込んだ三日月の目が鼻先に見えた瞬間に、横なぎに腹を蹴り上げられて体が飛んだ。背中から墓石に打ち付けられて、ずるりと泥の中に崩れ落ちた。早い。  早すぎる。  あの子は───  悪寒が背筋を駆け抜ける。  ぐらつく頭で薄く目を開けると、少し先の石畳の上に三日月が浮いていた。視線を上げると、顔の左側を潰された三日月が臨を見下ろしていた。  爛れた肉、血にまみれた顔。  三日月の左目はなくなっていた。けれどひどく満足そうに笑っている。  やはり人ではない、と今更のように思った。  手の先にぶらりと下げた赤黒い抜き身の刀が、視界の隅で鈍く光る。それが右に左にとゆらゆらと揺れながらすぐ側までやってきた。その時になってはじめて、臨は目の前に三日月がいることに気がついた。上着の中で、止んでいた携帯が再び震えだす。  透子かもしれないとふと思う。  よかった。  ここにいなくて…  あの時別れていてよかった。 「──」  三日月が臨の首からぶら下がっていたネクタイを掴み上げた。引きずられ、強引に立ち上がらされる。  下肢に力が入らず上手く立てない。打ち付けた背中が痛い。そのまま持ち上げられ、足が浮いた。首の後ろに全体重がかかる。骨がぎしぎしと軋んだ。  息がかかるほど三日月は顔を近づけてきた。  赤い瞳孔。  なにがそんなにおかしいのかずっと笑っている。  右目だけで嗤う瓜実顔が、舐めるように傾いて、臨の顔を覗き込み、何かを言っているが聞こえない。左目を失くした窪みからごぼりと血があふれて落ちていく。吐き気がした。雨が目に入り、開けていられなくなる。臨は苦しさにネクタイを掴む三日月の手に爪を立てた。引き剥がそうともがくが、その手は鋼のように硬かった。枯れ木のような見た目の通りではないと言うことか。  携帯の振動が止まった。  三日月は苛立ちをみせていた。だがどうしようもない。臨はゆるく首を振って分からないことを伝えようとする。水の底で会話をするように間遠な反応にもどかしくなる。  ぱっと、吊り上げられていた体を放り投げられた。地面に打ち付けられて体中が悲鳴を上げる。  塞がれていた気道が急に解放され、喘ぐように息をしたそのとき、頬にひやりとしたものを当てられて、瞬間、臨は三日月を見上げた。  蔑むように見下ろすその目が笑いを失くしていた。  そしてひどくゆっくりと三日月は臨の名を呼んだ。  ノ、ゾ、ミ…  ぞっとした。  笑いを失くした顔は能面のようだ。ひやりと冷たい恐怖が後頭部に張り付き、血の気が引いていく。目を離せない。残酷な気配に動けなくなった。指ひとつでも動かしてしまえば、その瞬間に殺される。  言葉が──何を言っても届かないのが何よりも怖かった。命乞いすら許されない。  ノゾミ、と三日月の口が動くのをただ見ていた。白く息を吐く自分をどこか遠くから眺めている気がした。魂はどこか別の場所にあり、これは本当に自分のことなのかと、振り上げられた刃をぼんやりと見つめていた。  なぜ死ぬのか、と。  理由もなにも知らないまま。  こんな、  こんな雨の日に。  嫌だ。 「い、や、だあああっ…!」  声の限りに臨は叫んだ。  自分で自分の掠れきった声に、下ろされる刃に、目を閉じていたくはないと力をこめた。逸らしたくない。見ていたい。自分の最後の瞬間くらいせめて見届けておきたかった。  こんな、訳が分からないまま──  三日月の手が何の感情もなく振り下ろされた。 (あ───)  それは壮絶に美しかった。  曇天の背景に赤い彼岸花を思わせた。首筋に当たる瞬間、鳥が横切るのを確かに見た。  そして少女はそこに立っていた。
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