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 すべてが一瞬だった。  振り下ろされた刃、千切れたネクタイ。首筋に走った冷たい痛み。  ぶれた視界の中──  残像のような少女の体が臨の前に現れた。  倒れ込む臨の目の前で──彼女の左腕が、宙を舞った。  空が赤く染まる。  飛び散った生温かな液体を顔に浴びた。臨は、口元に滴る錆びた匂いを感じた。  血だ。  予想外のことに三日月の意識が逸れた。視線が腕を追う。  視線がわずかにずれたその瞬間、少女は屈み間合いに入った。手刀だ。三日月の腹に下から右腕を鋭く突き入れた。  三日月の目が見開かれた。  少女がさらに腕を押し込む。三日月の体がくの字に折れた。腕は三日月の腹を貫き背を突き破った。少女は背から突き出た白い指先を引き、内部を抉って横なぎに引き裂いた。千切れた肉が飛んだ。限界まで開ききった三日月の口から臨には聞こえない咆哮が上がった。  ごとりと、少女の白い腕が両者の間に落ちた。 「──」  臨は叫んだ。頭を抱えて声の限りに叫んだ。  どうして──  三日月の腹を裂いた少女の右手は、ねっとりと血を纏い、陽炎が、刀身のように立ちのぼっていた。  激しく上下する細い肩。呼応して吐き出される白い息。足元に広がる血だまり。三日月の体はぶるぶると震え、ぐしゃりと泥の中に崩れ落ちた。  少女が、ゆっくりと臨を振り返った。  青ざめた顔、荒く息をしている。  雨が血を洗い流していく。  緑色の目を臨は見上げていた。  口の中に、浴びた血が雨と共に流れ込んでくる。とっさに臨が吐き出そうとした時、素早く伸びた少女の手のひらが臨の口に押し当てられた。 「ぐ、う…っ、うッ…」  苦しさに臨はもがいた。ものすごい力だ。  押さえつける少女の手を引っ掻く。  けれど暴れる臨の目を真正面から見据え、少女は引き剥がすことを許さなかった。手のひらをどけようとする臨の腕を取り捻りあげた。少女は何かを言った。  苦しさに涙が滲んだ。  血の匂いに咽返る。堪えきれずに、臨は生温かなそれを飲み込んだ。臨の喉が動くのを少女はじっと見届けていた。  ザッと耳元で砂が擦り合うような音がした。  音が歪む。  苦しい。  熱い──熱い。  血が落ちていく喉が灼けるようだ。喉を掻き毟りたい。少女は地面に臨を押さえつけた。臨は激しく首を振った。内臓が爛れおちる気がした。体の内側に火を放たれたかのように熱い。激しい嘔吐感がせり上がってくる。  少女は突然手を離した。 「ウ、──」  臨は転がり起き、その場に胃の中のものを洗いざらいぶちまけた。それでもなお収まらない吐き気に視界が滲んだ。大きく開けた喉から体がひっくり返りそうだ。涙が溢れた。嗚咽が口の端から零れて落ちた。  気持ち悪い。 「───か」  低く、声がした。  ザーザーと砂がこぼれ落ちる音がする。  耳の奥で、チューニングを合わせるときのような──  甲高く鳥が鳴いた。 「臨」  声がした。  少女が臨の傍らに膝をつき、顔を覗き込んでいた。 「臨、分かるか?」  自分の頬を涙が伝って落ちていくのを臨は感じていた。  ゆっくりと音が戻ってきた。  雨の音が聞こえている。 「聞こえるか?私の声が分かるか?」  臨は頷いた。  初めて聞くその声は低く、落ち着いたものだった。  少女でも少年でもない──  溢れ出てくる涙が雨に混じっていく。 「腕が…」  絞り出した臨の声は震えていた。 「きみの──」  はっと臨は身を強張らせた。少女の肩越しに、不自然に捻じ曲がった体が蠢いている。気味の悪い音が聞こえ、やがて這いつくばった泥の中から顔だけを上げて、それは笑った。  生きている。  体を抉られても──  少女が気付いて振り返った。その横顔がわずかに歪んだ気がした。 「そんなにもそいつが大事かよ」  少女に三日月が言った。  三日月の声はざらついていた。喉の奥で引き攣るような笑い声を上げる。口の端を吊り上げているが、目は苦痛に歪んでいた。  体を覆っていたものを保てなくなったのか、雨に濡れそぼり、血が一筋、口からたらりと溢れ出て、糸を引いて落ちた。 「首ごと切り落として持っていけばよかろうに」  そう言って臨を見た。射抜くような視線から庇うように少女は立ち上がった。  血にまみれた三日月の赤い舌が焼け爛れた唇をゆっくりと舐め回す。 「なぜ守る。我らの目的は同じはずだ…そうだろう?オルカ」 「笑わせるな」  少女の横顔を雨が流れ落ちていく。もはや血の気は失せ、吐き出す息の白さが時折不規則になっていた。  オルカ──それが名前なのか。 「我が(あるじ)に、もうその姿では立ち向かえまい」  ふ、と少女は口の端を上げた。 「だがおまえになら有効だ」  言葉の中に嘲りの色が浮かぶ。「私はまだ戦える。おまえに、試してやろうか?」  わずかに三日月が怯む気配がした。  少女が言い放った。 「消えろ。おまえの役目は終わりだ」  三日月の目が憎悪に満ちた。  動けない体を引きずって少女に挑もうとするが、体を支えきれず、途中で泥に溺れるように沈み込んだ。 「くッ…!」  三日月の目がそばに落ちていた少女の左腕を見た。這いずりながらそれに食らいつき、口を端まで大きく裂けるほど開いて腕を一飲みにした。 「格別の土産だ」  唇を長い舌がぐるりと舐め取る。 「化け物め」と少女が言った。  喉の奥で三日月がおかしそうに笑った。 「──お互いにな」  声だけを残して、すでに三日月の姿はなかった。  血溜まりの中に雨が降り続く。  消えてしまった。  いない。  もう誰もいない。  裸足の足が目に入り、顔を上げると、少女が臨の前に膝をついた。目線の高さが同じになる。  緑色の目が臨を見つめていた。  どうして、と臨は言った。 「なんで俺を…」 「臨」  名前を呼ぶ声は優しかった。その口元がわずかに微笑んだような気がした。 「…オルカ?」  臨は少女の名を呼んでみた。彼女がなにか言おうとした時、その体が崩れ落ちた。臨は手を伸ばして受け止めた。抱きとめたその瞬間に別の誰かの残像が頭の中をよぎった。が、それが誰なのか分からぬまま両腕にかかる重さの、その軽さに目を瞠った。  こんなに細い体で── 「オルカ?」  少女は──オルカは気を失っていた。  すでに限界だったのだ。  この事態がどういうことなのかはまるで分からないけど、彼女が命をかけて自分を守ってくれたことだけは理解出来た。  突然眦が熱くなる。こみ上げてくるものを堪えきれず深く息を吐くと、喉の奥が引き攣れたように詰まり、声が掠れた。  霞んだ視界に瞬くとぱたぱたと涙が落ちた。  臨は両腕で細い身体をかきむしる様に抱き寄せた。オルカの肩口で吐いた息がひどく熱く感じた。白い息、冷たい雨に濡れた体が、触れ合って重なった場所からゆっくりと体温を取り戻していく。  オルカの鼓動が伝わってくる。強張った体が溶けだしていく。気が緩んでいく。ふいにぐらりと視界が揺れた。  まずい、と思った。  逃げないと。  ここから逃げないといけないのに。  ここではないところへ、行かないと。  行かないと──  傾いだ体が泥の中に沈んでいく。  腕の中のオルカが臨の耳元で小さく囁いた。  臨の意識はそこでふつりと途切れた。
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