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 オルカの静かな声が言った。  それは囁くようにそっと、臨の中にはいってくる。 「私達は背骨を共有する二卵性双生児のようなものだ」 「どういうこと…?」 「神の門という名を?」  臨は首を横に振った。 「それでは太古に人が…神の領域に到達しようとした話を聞いたことがないか?」 「それは…」  それはきっと、バベルの塔の話だ。  神話の世界。  天まで届く塔を造ろうとして神の怒りに触れ、人々は同じ言葉を失い、散り散りになった。それ以後人は違う言葉を話し、互いを理解し合うことが出来なくなった…そんな話だ。  互いに理解し合えない。  言葉さえあっても。 「そう、この世界ではそうだ。だが、我々『シイ』はそのとき神を手に入れた。そして世界が分かれこの世界『セン』が出来たのだ」  オルカの目がゆらりと揺らめいた気がした。  神の足に人が触れた瞬間、神は自らの魂をふたつに分け、もうひとつの世界にその魂を残した。  それが臨のいる世界、センだ。 「我々の世界はシイと呼ばれる。人が五感以外に力を持つことが許された世界だ。おまえが見たように、私にも、奴にも、シイに生を受けたものは誰であれ力を持っている。それは神が我々にした復讐の結果だ」 「復讐?」  神を手に入れるということの意味を、誰も理解してはいなかった。  高みから引き摺り下ろされ、大地に足を着けた神は天には還れない。  魂を人の肉の中に閉じ込められたのだ。  忘我の怒りはシイを覆いつくし人々を混迷へと追いやった。神はその地を灼き尽くした。緑の大地は海に呑まれその大半を失った。  しかし神の中にあった大いなる力は、怒りや憎しみを具現化するたびに急速に消滅していった。天にはない神の力はもはや無限ではなく、神から放出された力はシイの中を彷徨い、シイの中に充満し、やがて長く、気の遠くなるような年月をかけて人の中へと還元されていった。  人に渡した力は神の中に残された以上だった。けれどそれだけの力を失ってもまだ、神は神であった。  終わらない怒りを静めるために無くした年月は暗い洞のように、口を開けて何もかもを飲み込んでいった。  だが終わりはある。  人々は神と契約を交わすことで事態の終焉を見た。  それにより人は永劫の安寧を。  対価として進化することを放棄した。  神は人としてシイに在ることを、そして永劫の支配と己への畏怖を。対価を受け取り、人を守ることを約束した。 「人であって人成らざる者として、人の側で生きていく事を神自身が決めた」  神は皇帝としてシイに君臨した。  そして、人が第六の力として神から譲り受けた力を持つ世界を統べる者となった。  背骨を繋げて生まれた二卵性の双子。  確かに、似ているようで違う… 「だが神であったとしても、その身は生身の人間だ。永劫に繋げていくにはむろん手立てが必要だった」  神の体は人と同じように老いていく。人よりもそれはずっと長かったが、それが人の肉体である以上体の死は避けられる事ではなかった。  最初の肉体は300年持った。次は280年、その次は250年と、そうして少しずつその間隔は短くなっていった。今では150年ごとに、魂はそのままに神の肉体は新しく生まれ変わる決まりだった。  創生の一族の手を借りて。 「それは神の足に最初に触れた者の末裔だ」  皇帝の世を作り上げる発端となった者の一族は、何故かその後女児しか生まれなくなり、しかもその生まれてくる子供の長子のすべてが強い能力者だった。生まれながらにして運命付けられた子供は同じ能力だけを代々受け継いだ。彼女らは皆、皇帝の依代(よりしろ)を創りだす「仮腹(かりばら)の巫女」となった。  それは言葉通り、肉体を創生するという能力だった。 「仮腹の巫女は皇帝の世代にひとりしか生まれない。つまり、皇帝の人の身が保持できる間に次の依代を創り出さねばならないという使命を負っている」 「つくりだすって、人だろ?…処女懐胎、とか…」  この話がどこへ向かっているのか分からないまま、臨は聞いた。  自分と何の関係があるというのだろう…  いや、とオルカは首を振った。 「懐胎さえしない。受胎もない。彼女たちはその能力で、人の体を生涯をかけて創り上げていく。ひとつの繭の中で」  繭?  頭の中で白く丸みを帯びた繭が浮かび上がる。  その中に眠る人の形。  どくん、と胸の奥が跳ねた。 「私にはひとり姉がいた」  オルカは言った。 「名は六吏(ろくり)。姉は、その仮腹の巫女だった」 「私の姉は、今の次世の皇帝の依代を創る巫女だった」  オルカの視線の先には冷めてしまったお茶の表面があった。その底に何かが見えているかのようだ。俯いた眼差しがどこにも焦点を結んでいないのを見て、臨はひどく落ち着かなくなった。 「だが死んだ」  はっとした臨の視線を正面からオルカは見返した。 「自らの伴侶に、私の義兄に死に追いやられた」  オルカの瞳の色が濃くなった気がした。 「仮腹の巫女は自分の能力を次に繋げる為に子を産まねばならない。その伴侶となる者は同じ一族以外から巫女自身が選び出す。姉もそうして夫を──義兄を選んだ」  先を見越す高い先見の能力を持ちながら、姉はあの義兄を選んだ。いずれ自分を殺す彼の姿が見えなったのか、見なかったのか。  彼女に分からないはずがない。なぜなのか、今ではもう問い質す事も出来ない。 「巫女は皇帝の依代を創生し、その継承も担うことになっている。皇帝の魂の入れ替えには彼女達自身の、その体の一部が必要とされたからだ」 「一部って…?」 「目だ」  その瞳。受け継がれる能力の証はその目の色だった。白銀の瞳に薄紫の瞳孔がそのしるしだった。硝子玉のように透き通った銀色の目の奥に眠るのは世界の根源だ。  それをあの男は抉り取って行った。  両目とも。  姉の美しい目を。 「巫女の目は神の肉体の一部だ。神を引き摺り下ろした代償として神が我々に与えた継承の証、融合する力を持ち、それは世界の境界をも揺るがせるものだ」  オルカは続ける。 「義兄は自らの目的のために姉の目を奪った。私がその場に駆けつけたときにはもう遅かった」  おびただしい血溜まりの中で義兄が、床に倒れる姉を見下ろしていた。  姉はまだそのとき息があった。  細い指先が縋るように義兄の足首を掴んでいた。  部屋に飛び込んだオルカを一瞥して義兄は底の知れない笑みを浮かべた。  やあ、といつものように声をかける様に凍りついた。  人好きのする優しげな顔のその頬に点々と飛んだ返り血。足下は血の海だった。 (これ、もらっていくよ?)  まるで菓子でも貰うような口ぶりで。  血に濡れた左手を差し出して、わざわざ開いて見せた。  義兄の手のひらの上で抉り取られた姉の目がごろりとこちらを見ていて──  血が、沸騰する。 「部屋にはすでに審門への入り口が開かれていた。義兄が飛び込む寸前に姉は瀕死の状態で義兄に強制退行の術式をかけた。術を受けながらそのまま義兄は審門をくぐり、逃げおおせた」 「しんもん?…そのタイコウっていうのは…」  オルカは臨に教えた。  シイとセン──双環(そうかん)の境界には審判の門、審門と呼ばれる門があり、ふたつの世界は行き来が可能だった。  それは、それぞれの世界の高い能力者の限られた者達──シイの者を使者、センの者を番人と呼んだ。彼らはそれぞれの世界の監視者である──彼らのみが使える術式で双環の境界線に審門を開くことが出来た。  一度開いた審門の効力は20時間。同じ者が一度しか往来できない。  だがそこを通るためには鍵と呼ばれるものが必要となる。術式と対となる鍵を持つ者だけが審門を通ることができ、持たずに侵入した者は審門に仕える門番に強制的に肉体を退行させられ、その力も制限、もしくは失うことになる。 「それが今の私の状態だ」  臨は頷いた。それを見てオルカが続けた。 「義兄は姉の術式を受けてその身は胎児にまで還された。よもや瀕死の姉にそこまでの力が残っているとは思わなかったのか、それは義兄にとっては誤算だった筈だ」  そう、あのとき、すでに審門は開かれていた。当然審門の鍵もその手にあったのだ。ならば強制退行を受けて審門を通っても義兄の力は奪えていない。 「義兄は残ったすべての力を使ってこのセンで自らの目的のために生き延びることを選び、女の腹の中へと潜った。人の子として再び生まれ、失われた力を取り戻しシイに帰還する機会を待つことにしたはずだ」  人の腹の中、と臨は声に出さずに呟いた。 「どうしてそんなことが分かるんだよ。オルカはそれを見てたわけじゃないだろ?」 「我々はずっと義兄の痕跡を辿っている。今もそうだ。ずっと捜している」  義兄は焦らなかったはずだ。仮腹の巫女は死に、神の次の依代はなくなった。神の肉体はやがて朽ちる。継承を行う仮腹の巫女の目は己の手の中にあり、それは同時に神の死を、シイの支配を意味していた。  時を待てばよかった。  ただそのときまで。  薄ら寒い義兄の思惑が透けて見える。黒々とした沼の底から、嘲笑う声が聞こえてくる気がする。長い追跡の後に知り得た断片的な事実をどれだけ丁寧につなぎあわせても、どこまで真実なのかと疑い出せばきりがなかった。  迷うことは死だ。  振り返ることはできない。 「義兄はセンに逃げ込んだときある人を選んだ。その女性の体内で自らと姉の目を細胞にまで退化させ、その人の一部となって長い眠りについた。我々がその行方を探し当てたときには細胞は深部にまで癒着し、もはや分離することは不可能だった」  あの時。  義兄の能力の最大は姉と同等であったか、それ以上だ。  はじめから裏切りを前提としていたのなら手の内を見せていたとは考えにくい。  ならば姉よりも上…高い能力者の中でも筆頭だった仮腹の巫女をも退けるほどの。  能力の高さは、姉と同じ術式を自らに重複させたことで分かる。  変容する肉体は容易に周囲に溶け込んだ。  払う対価は大きかったはずだ。  だがそれでもよかったということか。目的を遂げる為なら──それさえも。  目の奥に蘇る冷えた嗤い。  それは今もオルカの中に消えずに残っている。胸の奥に、熾火(おきび)のように。  オルカは再生した左手を知らず固く握り締めていた。  迷うな。  臨を正面から見返した。 「その女性は20年ほど前に身ごもり、子を産んだ。そして程なくして死んだ」  自分を見る臨の目が、ふと揺れたように見えた。 「13年前のことだ」  気づかないふりをする。  臨が眉をひそめた。 「なぜ義兄がその人を選んだのかは分からない。彼女の一部となった義兄はその後我々の追跡から完全に消えた。そして私たちは彼女のふたりの子供に、義兄がもたらしたものがそれぞれに受け継がれたことを突き止めた」 「…ふたり、って?」 「その人の子は双子だった」 「じゃあ、それぞれっていうのは…」  オルカはゆっくりと言った。 「義兄と、姉の目だ。皮肉にも融合したはずのふたつはふたりの子供に別々に宿ってしまった」  臨がじっとオルカの声に聞き入っている。 「だが、生まれたのはひとりだった。もうひとりは生まれる前に腹の中で死んでいた」  びくりと、その瞬間臨の体が震えた。 「──」 「分かるか?臨」  オルカは臨を正面から見据えた。  その目を見ていた。  その目だけを。  なにかを言おうとして息を呑んだ臨からオルカは視線を外さなかった。 「生まれてきたその子供は、臨──おまえだ」
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