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自動販売機前での衝撃的な出会いから三週間後。
その後、上重さんに偶然出会うことはなかった。
元々エンジニア部と企画部のフロアは別の階で、あの時上重さんが『気分転換に社内を歩いていた』という言葉の通り、本来は出会わない人なのだと、この長い三週間がゆっくりとその現実を教えてくれた。
「……お腹、すいた……」
久しぶりの残業日。パソコンを目の前に、力尽きた身体はデスクに突っ伏してしまった。
長時間画面を見た疲れ目より、キーボードを叩きすぎた手より、何よりも午後七時を過ぎた時の空腹に耐えきれなかったからだ。
「プレゼン用のデータはある程度形になったし、今日は帰ってもいい、よね……。このままだと効率も悪いし――よしっ! 帰ろう!!」
手早く荷物をまとめ、デスクの整理をしてから部屋を後にする。
お腹がすいたと泣き言を言って突っ伏したものの、自宅に戻ろうとする足は早くなり、エレベーターホールに向かった。
が、その足はとある角で一時停止してしまう。
エレベーターホールにはまっすぐ進めばいいのだけど、左に曲がった廊下の先には休憩スペースがある。
いつもなら残業日は仕事終わりにご褒美としてジュースを一本買うのが恒例の行動、なのだが……。
「…………」
思うところはあるが、今日は早めに帰宅しよう。
そう思い左の曲がり角には目を向けず、再びまっすぐ歩き出そうとした時だった。
「――あれ? 今日は自販機寄らないの?」
不意に横から声をかけられ飛び退けば、そこには出会った時と真逆の衣服に身を包んだ男性の姿があり、私は驚いた。
「か、上重さん……!?」
「こんばんはー。残業、お疲れ様」
黒色のロングコートの下に覗く灰色のスーツ。紺色のネクタイにはデザインのいいネクタイピンがつけられ、三週間前は無造作に結ばれていた髪も、今は綺麗に整えられた形でカットされている。
緩やかな口調も自分を見下ろす猫背も変わらないのに、まるで別人のように姿を変えた上重さんの姿に上手く反応できず、ただ見つめ続けてしまう私の姿を、彼は笑った。
「あはは。やっぱりこの姿、似合わないかな?」
「い、いえ! とても素敵ですけど、その、余りにも違いすぎてギャップが……」
「そういうことね。これは専務や社長との合同会議用。普段着はこの前みたいな格好だよ。俺、スーツ嫌いだから」
「綾ちゃん、貴重なもの見たねー」。
そう言って自分でもらしくない姿だと上重さんは笑い、緩めていたネクタイを邪魔だと言って外し、持っていた鞄に仕舞った。
「それで、今日は寄らないの?」
「え?」
「休憩スペース。君が飲んでいたミルク多めのカフェオレ、まだ自販機に残ってたよ」
上重さんが指し示す休憩スペースに、普段の自分なら仕事終わりによって一息ついていたと思う。
だけど今はお腹が空いてしまった為に早く帰宅したいし、そして何より……。
「えっと、今日はやめておきます。もうこれから帰るので」
「そう?」
「はい。それに…………今、きんけ――」
――ぐうぅぅ~……
金欠の現状という漏れかけた本音と、大きく鳴った腹の音。
どちらも聞かれたくなかったのに、熱を持った顔を上げれば目の前の上重さんは口元に手を当てて必死に上がった口端を隠しているが、笑いを堪えているのは目に見えて明らかだった。
「な、なるほどね。だからジュースも買わずに、早く家でご飯ってわけか……ククッ……」
「わ、笑わないでくださいっ! きゅ、給料日前だからしょうがないじゃないですか!!」
「ご、ごめん……アハハッ!」
「謝罪の言葉より笑いを止める努力をしてください!」
「あー、うん。分かった、分かった」
目尻に涙を溜めるくらい笑った上重さんは「面白かった」と本音を隠すことなく言い切ると、未だ羞恥心が治まらず顔を真っ赤にする私の先を歩き、エレベーターホールに足を進めた。
「じゃあ、いっぱい笑ったお詫びにご飯奢るよ。行こう」
「え? い、いえ! それは……」
「いいの、いいの。ココアのお礼を返させて。大丈夫、味は保証するよー」
意気揚々。そんな足取りで先を進む上重さんの姿に少しだけ考えて、せっかくだからとお言葉に甘えることを決め、彼の後を小走りで追いかけた。
――※――※――※――※――※――
赤い暖簾に、薄明かりの点いた粋な提灯。
高架下の小さな店の前まで歩くと、上重さんは躊躇うことなくその店へと足を踏み入れ、入り口すぐの券売機で食券を二枚購入し、カウンター奥の店主に手渡した。
そのまま慣れた足取りで店の奥のカウンター席に向かうと、自分が着ていたロングコートと私が着ていたコートを手近なハンガーに通し、壁に掛けてくれた。
席に腰かけると、彼は「すこーし待っててね」と嬉しそうに笑い、目の前で調理を始める初老の店主を眺め、注文の品がテーブルに置かれるのを待った。
そして、ついにお待ちかねの一杯が目の前に置かれる。
「……これって……」
「そっ。ちょーっと狭くて古くて、メニューも十品あるかないかのラーメン店。けど味は最高で、特におすすめなのが、この――」
「“店主の気まぐれ盛りもりネギ塩チャーシュー麺”、ですよね!」
上重さんの言葉を遮って、思わず先におすすめメニューを言ってしまう。
前のめりになった私の姿勢に彼は一瞬驚くも、心が躍っている私の心情を察してか笑い返してくれた。
「綾ちゃん、もしかしてここの常連だったりする?」
「常連ではないですけど……週一は来てます」
「なるほどねー。だから綾ちゃんのどんぶりにだけ、煮卵二つも入ってるんだ。“いつもの”ってやつかな?」
「そういう上重さんのは、メンマ大盛ですね」
互いの目の前に置かれたラーメンどんぶりの中を窺いながら、私たちは笑う。
するといつもは無口な店主が更にチャーシューを二枚オマケしてくれて、その意外な行動に私と上重さんは顔を合わせてまた笑い、店主の粋な計らいに甘えた。
「……にしても、なんかいいな」
「え?」
そう上重さんがポツリと呟いたのは、ラーメンを食べ終えてお冷を飲んだ後だった。
「ほら。女の子って、小さな店のラーメンよりお洒落な店のパスタってイメージがあったからさ。俺としてはお気に入りだけど、店の前で帰られたらどうしようかなーって」
「確かに、友人や同じ部署の人達と外食するとパスタとかイタリアン系になっちゃいますけど……私はここのラーメン好きですし」
「そっか。ならよかった」
「お腹、もう鳴らないよね?」。
冗談交じりで数時間前の恥ずかしい過去を掘り起こす上重さんの言葉に、他のお客さんの迷惑にならない範囲で彼の横腹を小突く。
年上相手に酷いと不満を漏らされたけど、見上げた先の表情はとても柔らかくて、その微笑みにつられて笑ってしまった。
言葉の通り相手は自分よりも年上であり、役職も上の人間。
それでも、そのことに気を遣わない今の接し方が会社にいた時より更に彼が生き生きとしているような気がして、私は上重さんが心にもない文句を言っても、それを笑って流した。
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