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【手ぶらと給料日前】
出会いはただの偶然。
これを運命と呼ぶには、少しロマンチックさに欠けている気がする。
だけど等身大の私たちには、今思い返せばお似合いで。
懐かしくも愛おしい思い出として、笑ってしまう……――。
―◆――――――◆―
【手ぶらと給料日前】
―◆――――――◆―
大手企業には黒い噂があったり、勤務実態がブラックな会社がある。
……なんて世間ではイメージされがちだけど、ありがたいことに、今年で三年務めるこの会社はホワイト企業と呼ばれる会社だった。
基本定時上がり。残業がないわけではないけど、月に十時間以内で、きちんと残業手当は給与される。
だからこそ、月に数回ある残業日は帰宅時間が遅くなっても、不満はない。
いつものように数時間の残業を終えて、フロアの休憩スペースにある自動販売機で自分へのご褒美に缶ジュースを一本。それが、恒例となっていた。
――の、だが。
「……あっ。濃厚ミルクココア、新入荷してる……」
この時間であれば人がほぼいない休憩スペースに、この日は珍しく先客がいた。
しかも目的の自動販売機の前に立ち、ジッと眺めている人。見かけたことがない人だったから同じ部署ではないと分かったけど、それ以上は不明。
ただ、少しだけ長く伸びている黒髪を無造作に茶色いゴムで結んでいて、手元が隠れるほどに袖の長い大きめのカーディガンを羽織った男性。
背は高いはずなのに猫背のせいか少し低く見えて、自分より年上のように見えるのに仕草や雰囲気はどこか子供っぽい。
第一印象は、上手く特徴を掴めない不思議な人だった。
「……おいしそー」
これが、次に彼が呟いた言葉。
手の甲までカーディガンの袖で隠れた右手を伸ばしてボタンを押すも、足元の取り出し口から品物が落ちてくることはない。
そもそも、よく見ると入金されていない状態の自動販売機で。ボタンを押しても商品が出てくることはまずありえない。
本人もそれが分かっているのか「だよねー……」と呟いて溜息を吐いたけど、それは当たり前だと私も近いタイミングで呆れて溜息を吐いてしまった。
「ん?」
その意図せずついてしまった大きな溜息が、名前も知らない彼が振り向くきっかけとなる。
「す、すみません。え~っと……」
「あぁ、ごめんね。自販機使うんでしょ? どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
軽く会釈して男性が後退して離れた自動販売機の前に立って、一通りの品物を眺める。
ここ最近のお気に入り、期間限定のミルク多めのカフェオレが残っていたことに安堵しつつ、手にしていたお財布から百円玉と十円玉を取り出し……数秒でその手が止まってしまった。
――視線をずっと感じるからだ。
ゆっくりと振り返れば先程の不思議な男性は少し離れた位置で、未だ自動販売機をジッと眺めている。
私を見ていないという事実は分かっていても、自動販売機を見る視界には必ず自分がオマケ程度でも含まれていて、結果的に相手の視線が気になってしまう。
はぁ、とまた溜息が漏れてしまった。
「……『濃厚ミルクココア』だっけ……」
男性が呟いていた言葉を思い出して、手にしていた百円玉と十円玉を戻し、代わりに五百円玉を取り出して入金口に挿入する。
明かりのついたボタンと商品を確認しながら、一回目は期間限定のカフェオレを。そして釣り銭返却のボタンを押す前に、二回目の濃厚ミルクココアのボタンを押してから、釣り銭ボタンを押した。
返却口の小銭をお財布に戻してから商品受け取り口に手を入れて二本を温かい缶を手にし、濃厚ミルクココアを後ろに立っていた男性に差し出した。
「よかったらどうぞ」
「え? いいの?」
「はい。――というより、もう買ってしまったので受け取ってもらえると嬉しいです」
「ふむ……うん、じゃあ貰おうかな。気分転換に手ぶらで社内歩いていたから、お金無くて困ってたんだ」
温かい缶を両手で受け取って「ありがたく頂戴します」と頭を下げる行動は、やっぱり不思議に見えてしまい、ますます“彼”という人物が分からなくなる。
しかし缶の蓋を開けてココアを飲み干し微笑む目の前の男性はとても幸せそうで、自分の行動が余計なお節介にならなくて良かったと笑い、私もカフェオレを飲んでしまう。
「ありがとう。これで残りの作業も頑張れそうな感じ。頭使う時は、甘いものが必須だよねー」
「……まだ、お仕事あるんですか?」
「うん。もう一山――か、二山くらいかな? 今構築してる管理プログラム、社長が早めに運用したいって言うからさ」
「……えっと、社長……?」
営業部の人の様に背広に身を包みしっかりとした身なりをしているわけでもなければ、商品開発部の人のように個性を用いた服装でもない。
実用性重視の重ね着に、邪魔になって無造作に結んだ髪。目の前の男性は胸に下げていた社員証を摘み上げると、一歩前に踏み出して私に見せてくれた。
「エンジニア部の上重悠斗。こんな格好しているけど、一応部長やってるんだ。――ココア、ありがとうね。企画部の高槻綾ちゃん」
いつの間にか自分の社員証ではなく、私の胸元にかけてあった社員証をソッと手に取り名前を読み上げた彼は、気さくな笑みを浮かべた。
空き缶をゴミ箱に入れて軽い足取りで休憩スペースを去っていく不思議な男性――上重さん。
何気なく接して去っていく彼だけど、違う部署の人間でも名前だけは聞いたことがあった。
現社長が就任直後、副社長としての人事異動を『自分に出来ることで社の発展を手助けするよ』と笑って投げ捨てた有名な変人。
数多のメディアで敏腕と取り上げられる社長が社員時代から一目置く存在。――それが、上重悠斗さんだった……。
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