2.母の日記

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2.母の日記

『ユルサナイ』  ページを(めく)り真っ先に目に飛び込んできたのは憎しみに震えるようにして書かれたその一文。ゾッとした。確かに母の筆跡ではあるが、書き殴られたようなその文字には怨念がこめられているようにさえ感じる。思わず眩暈(めまい)がしてノートを取り落としそうになった。 ――読まない方がいい  心のどこかからそんな囁きが聞こえる。読んでしまえば後戻りはできない、後悔する、もう一人の私がそう囁いている。ふと部屋を見ると父の姿はない。大方タバコでも吸いに行ったのだろう。母の死後本数が増えた。私は日記の続きに目を遣る。 『あの女、隆さんをたぶらかして私から奪ったあの女。死ねばいい』  そのページにはそれだけが綴られていた。隆というのは父の名前だ。昔父と母に何があったのだろう。それに“あの女”というのは……。私はもう日記から目を離せなくなっていた。もう一枚捲ると次のページにはまた日付だけ。それは最初の日付から一か月後のものだった。おそるおそるもう1ページ捲ってみる。 『やはり神様は実在するのだ。あの女が死んだ。何てスバラシイ。子供を産み落としてそのまま死んだ。今日はお祝いをしよう』  それは生前のあの穏やかな母からは全く想像できないどす黒い感情に溢れた文章であった。私は何となく吐き気を感じつつページを捲る。また日付だけ。日付は翌日のものだった。 『昨日あの女の訃報を聞いてから私の中にある計画が生まれた。素晴らしい計画だ。すぐに実行に移そう』 ――計画?  何だかとても嫌な感じがする。もう読むのを止めようか、そう思いつつも手が勝手にページを捲っていた。次の日付はしばらく空いて三か月程後のものだった。これまでのページと違い小さな文字でぎっちり書き込まれている。 『計画はうまくいっている。とてもうまくいっている。隆さんは私と再婚するだろう。そしてそう、あの呪われた娘は私が育てることになるのだ。隆さんは私のことを心の広い思い遣りのある女だと思っている。自分から婚約者を奪った女の子供を育てるなんて何て心の広い、と。  計画通り。全て計画通りだ。でも隆さんにもちょっとしたお仕置きが必要だろう。大切なものを失う苦しみを味合わってもらわなきゃ。あの女が死んだとき以上の悲しみを。そう、あの女と隆さんの娘。あの娘は大切に大切に育ててから殺してやる。そうだ、二十歳がいい。二十歳になったら殺してやる。二十年後、この家では盛大な葬儀が挙げられる。この家で娘の二十歳のお祝いをすることは絶対に、ない。  娘の名前はもう決めた。漢字は何でもいい。でもこの名前だけは譲れない。花の名前だ。花言葉は純潔。ああ、あの汚らわしい女の娘に純潔! 傑作だ』  この日の日記はどうやら次のページまで続いているらしい。私は震える手でページを捲った。その時である。 「おい、どうした?」  後ろから突然声をかけられて私は文字通り飛び上がった。 「お、お父さん」  慌てて日記を引き出しにしまう。父は私に訝し気な視線を送るとちょっと重い物を動かすから手伝ってほしいと言った。それから父の手伝いをし二人で静かな夕飯を取ると私はシャワーを浴び自室へと戻る。日記の続きが気になって仕方なかったが母の鏡台は夫婦の寝室にある。今行けば父に気付かれてしまうだろう。明日からは登校する予定だが帰ってからゆっくり読めばいい、そう自分に言い聞かせて眠りにつく。その夜は何かに追いかけられるような悪夢を繰り返し見たように思う。翌朝目覚めるとパジャマが汗で濡れていた。 ――あれ、ない  学校が終わり家に帰ると早速鏡台の引き出しを探った。だが日記はどこにもない。父が気付いて処分してしまったのだろうか。あの日記どこにやったの?、私はお母さんの本当の娘じゃないの?、と父に詰め寄ろうかと何度も思った。でもできなかった。そうさせない空気が父にはあったのだ。
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