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マンション部屋のドアの前で その2
ここで齋藤さんとお別れ、か。
せっかくこうして齋藤さんと仲良くなれたのに。そう思うと名残惜しくて、頭の中で、彼と次会えるのはいつになるだろう、なんてことを考えている。
「山本さん」
ピクンッ!
齋藤さんの穏やかな声音に、私の耳が過剰に反応する。今自分が何を思っていたのか知られた気がした。そんなこと実際には無いはずなのに。自分にそう言い聞かせ、落ち着き払うも、「ん、なに?」と、齋藤さんに返事した声は、ちょっと小さくなっていた。
ううっ……。
恥ずかしさがこみ上げ、心の声で思わず唸り声を上げてしまう。
でも齋藤さんは、私がそんなことになっているとはつゆしらず、口をそっと開く。
「今日は、その……、ありがとうございました」
「うっ、ううん。こ、こちらこそ」
お互いにちょっと歯切れの悪いやりとりを交わした後、齋藤さんがぽつりと呟いた。
「えっと~……、そうだ、アイス」
何気ない彼のその言葉に、私の鼓動が『トクン』と強く鳴った。それを合図にするかのように、そわそわしていた体と気持ちが、急に静まっていく。そして、胸の中で何かがしぼんでいく感覚が、とても嫌だった。
「山本さん?」
齋藤さんに呼びかけられハッとする。彼の方へ慌てて視線を向けた。
横に並んでいたはずの彼が、いつの間にか私の方へ。正面を向いていた。なんだか少し困ったような笑みを讃えながら。
私はその原因に一瞬悩むも、彼が右手に掲げているアイス、ハーゲンダッツのストロベリーを目にしてすぐ気づいた。
「あっ……! そ、それね」
私もそそくさと齋藤さんの方へ体を向ける。
目線は自然と彼の顔へ。
すると彼はとても……、穏やかな笑みをこぼす。優しく目を細め、
「アイス、お渡ししますね」
「あっ、うん。ありがとう」
私がそう言うと、彼がおもむろに手を差し出してくる。
アイスを持っている彼の手に、私の視線が吸い寄せられる。長くてキレイな指。でも、少し無骨で男性らしい雰囲気が、異性として彼のことを、強く意識させられる。
ちょ、ちょっと……、なに考えてるの、私は。
気恥ずかしくて、アイスのカップに目線を集中させるも、逆効果だった。だって、彼の指がアイスのカップの上と下をしっかり挟み、全体を手のひらで支えるようにしていて……。
このまま自分の手で受け取ろうとしたらきっと、彼の手に触れてしまう。
鼓動が早くなる。頬が、耳が熱い。体もなんだか火照っているような感覚に、私の脳内が騒ぎ出す。でもその間にも、アイスを持った彼の手が近づいてくる。
う、受け取らなきゃ。
そう強く自分に言い聞かせ、手を伸ばす。でも私の手の動きがすごくぎこちない。まるで手の関節が錆び付いているみたいだった。このままじゃ、受け取ったアイスを落としてしまう。
絶対落としちゃダメ。そう思った私は、咄嗟に両手の平を彼に差し出した。指同士をぴったりとひっつけて、少しお椀のように形作る。
うん、これなら絶対落とさない。
私はいつでもどうぞ、といった気持ちで、待ち構える。
すると、齋藤さんが目を丸くした。私のことをジッと見つめる。彼の動きはなぜか止まっていた。
私が不思議そうにしていると、齋藤さんが急に笑った。なんだか可笑しそうに。
えっ、ええ? どうしたんだろ?
そう思うも、彼は少し頭を振って気を取りなおすような動作をした。そして、ゆっくりとアイスを持っている手を近づけてくる。
私の手のひらに神経が集中する。
彼の指が、アイスより先に触れた。
ほんの一瞬の感覚。
思わず私の手がピクリと揺れ動く。彼の触れた部分が過剰に反応しているのが、手に取るように分かった。それを鎮めるかのように、手のひらに載せられたアイスの冷たさが、なんだか心地よくて、なんだか……、物寂しい。
「ちょっと、溶けちゃってますかね」
彼の穏やかな声に、少しおどおどしながらも口を開く。
「あっ、う、うん。そうかもね。でも大丈夫だよ、冷凍庫で冷やせばいいから」
そう言うと、彼がなんだかイタズラな声音で聞いてきた。
「あれ? 今日は食べないんですか?」
「えっ? う、うん。だって、もう……、夜も遅いし。こんな時間に食べるのはさ、ちょっとね」
「へぇ~……、今日アイス食べたくて出かけた、って言っていたような気がするんですけど」
齋藤さんはそう言って、意地悪い笑みを浮かべた。
うっ……。確かに、今日の表向きの外出理由はそれだったなぁ、と改めて気付く。と同時に、こんな夜遅くに、アイスを食べると思われているのがちょっと不本意で、ちょっとだけ抵抗したくなった。私は口を少し尖らす。
「食べない。食べませんから」
「ふぅ~ん?」
「むっ……、すごく疑ってるでしょ」
「いえいえ、そんなことないですよ」
「もう、絶対うそ」
「あっ、バレました?」
齋藤さんはあっさりとそう言って、くすくすと笑う。私もそんな彼につられて、小さな笑い声が口からこぼれる。互いにひとしきり笑い合うと、彼が優しく口を開いた。
「あの、山本さん」
「ん? なに?」
「今日、すごく楽しかったです」
「うん、私も」
まだこの時間が続けばいいのにって、思っている。でも―、
「えっと…………、山本さん」
彼の少し低く落ちた声音が、私の胸を締め付けた。そう、だよね、もう時間だよね。
私達は互いに顔を見合わせる。少しの沈黙。そして、彼がゆっくりと告げた。
「それじゃあ……、また」
「あっ……、うん、またね」
彼が私に背を向ける。私の心がざわつく。『また』からの続きはないの? と彼の最後の言葉に尾が引かれる。と同時に、頭によぎる、私と彼は単なるお隣さん。そう、こうして、仲良くしたり、出かけたりするのがおかしい。
…………、ほんとにおかしいの?
キュッ。
「えっ……」
「あっ……」
気付いた時には、私は齋藤さんの服の裾をつかんでいた。
そんな自分に思わず驚く。でももっと驚いているのは―、
「え、えっと……、や、やま、もと、さん?」
その声に顔を向ける。齋藤さんが目を大きく見開いて、私を見つめていた。瞳は戸惑いの色を移している。きっと私も同じ。
「えっ、えっとね……、ちょ、ちょっと待って」
「あっ、は、はい……」
そうして2人して固まる。私は必死に思考をめぐらす。ほんと、ちょっと待って。この状況をどうするつもりなの私は!? あっ、あれなの? まだもう少し一緒にいようとか、ってそんなこと言えるわけ無いでしょ!? えっと~……、あっ!!
「ポ、ポプリ!」
「いいっ!? は、はい!?」
まるで魔法を唱えるかのように、大きな声を出す。齋藤さんは突然のことに驚く。でも私はそんなことに気を回す余裕はなかった。彼にそのまま話しかける。
「えっとね! ポプリを渡したいの!」
「えっ!? ……あっ! な、なるほど! そういうことですね!」
「そ、そう! だからね! ちょっとだけ待ってて、ほしいの」
「あっ、はい! だ、大丈夫です! ここで、待ってますから」
「う、うん」
彼の『待ってます』を聞き終えてから、私は自分の部屋のドアに向かい、そそくさと開ける。靴を無造作に脱ぎ、小走りでリビングへ。ダイニングテーブルの上に置いてある、ポプリを包んだ水色の包みを抱える。その代わりに、片手に持っていたアイスを置いておく。すぐ彼のところに戻ろうとしたが、足を止めた。せっかく呼び止めてまで渡すんだし、もう全部渡そう! そう決めて私は、リビングにある小タンスの、一番上の引き出しを開ける。そこには密閉袋に入ったポプリがいくつも。全部もてるかな、そんな心配をしながらも、なんとか抱えて持つことができた。そのまま、また玄関へ戻り、なんとか、部屋のドアを開ける。
「えっ!? や、山本さん! それって」
彼が目を丸くしている。私は少し後悔する。ちょっとポプリを持ってき過ぎたか。でも今さらそんなことどうでもいい。
「えっと、齋藤さん!これ―」
私はそういいながら、彼に近づく。そして、胸にいっぱい掲げたポプリを渡そうとして、渡せなかった。その、両手がふさがってしまっていて……。
そんな私に、齋藤さんは気付いたのか、何だか笑いを堪えるような表情だった。
私は思わずムッとする。
「もう、齋藤さ―」
スッ。
彼の手が私の抱えているポプリに伸びる。私の不満の声が鳴りを潜めてしまう。
ひとつひとつ、丁寧にそっと、受け取っていく彼。
私はなんだか恥ずかしくて、ただじっとしていた。そして、いつのまにか最後のひとつ。水色の包装紙に包まれた包みが私の手元に残る。
これだけは、自分の手でしっかり渡したい。
「えっと、齋藤さん」
「はい」
ニコッ。
彼がとても楽し気に笑う。
その満面の笑みに、胸の高鳴りが波のように打ち寄せる。少し汗ばむ両手で、私は包みを持って、彼に差し出す。
「ありがとうございます」
「い、いえいえ」
ありったけのポプリを渡し終わって、気持ちが徐々に落ち着きを取り戻し始める。でも、それは束の間のことだった。
「じゃあ、次は山本さんが、待ってもらっていいですか」
彼がそんなことを言うから。
「えっ……!?」
私は驚いて声を上げるも、齋藤さんはくるりと背を向け、自分の部屋に戻って行く。
待たされる私。
一体、何がおこるのか、まったくわからない。ただ、その場で茫然としていると、彼の部屋のドアが開いた。
そして、彼が抱えているものに、目を奪われる。思わず声を上げた。
「わぁ~!! きれい!!」
白色のバスケットの中から、溢れ出るように飾られたフラワーアレンジメント。
齋藤さんは、私の歓声に嬉しそうな笑みを讃えながら、口を開いた。
「差し上げます」
「えっ!? いや、だ、だめだよ! こんな豪華なの!」
私がプレゼントしたポプリとは、比べ物にならない。
でも彼は、穏やかな笑みで、私との距離を縮めてくる。
もう、私と彼の距離は、白色のバスケット一つ分だけ。
「あ、あの……」
私は、彼との距離と、立派なフラワーアレンジメントを前に戸惑う。
彼が優しく目を細める。
「山本さんに、受け取ってもらいたいんです」
「え……?」
そう言った彼は、そのあとなんだか気恥ずかし気に頬をかく。でも、表情は柔らかかった。そんな彼に応えたくて、私は小さく、うなずいた。
彼の表情がとても明るくなる。私に白のバスケット差し出した。私はそれを受取り、胸元に近づける。
ピンク色のバラから、甘い香りが運ばれてくる。顔を少し近づけると、バラの香りに溶け込んでいるものに気付く。カーネーションとカスミソウ、あとガーベラだったかな。みんなこういう香りがするんだ。どれも優しくて、甘くて、すてき。
「さいとう、さん」
「はい」
「ありがとう。すごく……、嬉しい! 大切にするねっ!」
私の喜びの声に、彼は、満面の笑みで応えてくれた。
私は自宅のダイニングテーブルに、白いバスケットに入ったフラワーアレンジメントをそっと置いた。そして、近くにあるイスに腰かける。じっくりと、齋藤さんがプレゼントしてくれたフラワーアレンジメントを見つめる。何だかまだ気持ちがそわそわする。楽しかった余韻が私の心をイタズラにくすぐる。
「でも……」
そう呟きながら、思う。
次、齋藤さんと会えるのは、いつになるだろう。今にして思えば、偶然が重なって起きた再会だった。
…………、連絡先、聞いとけばよかったかな。って、なっ、なに、そんなこと思ってるのよ。もう、今さら遅い。
思わず寂しさが顔を出しそうになり、頭を軽く振る。せっかく今、良い気分なんだから。
このまま今日の夜は過ごしたい。それにさ、もう会えないってわけじゃない。だって彼は、私のお隣さん、なんだから。
白いバスケットに入った花達を見つめ、頬がつい緩む。ふと、横においてあった物に目が止まった。
……、せっかくだし。
私は、齋藤さんが買ってくれたアイス、ハーゲンダッツのストロベリー味に手を伸ばす。
カップの蓋をそっと開けた。程よく溶けたアイスが、カップの縁から少し溢れる。ちょっと慌てて、指ですくいとり、そのまま、口に持っていった。
「んっ……、甘い」
そして、ほのかに酸っぱい。
つい、また指で少し、アイスをすくい取った。
「これくらい、今日はいいよね」
そう自分に言い訳して、二口目を味わう。
また、齋藤さんと出会えますように。そんな甘酸っぱいことを頭の片隅に思いながら。
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でもそんな私の思いは、意外と早い形で、突然やってくることとなるのだけれど。この時の私は、そんなことしるよしもなかった。
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