マンション部屋のドアの前で その1

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マンション部屋のドアの前で その1

 私と齋藤さんは、マンションの階段を登って行く。自分達の部屋がある階を目指して。  お互い、なんだか急に会話が止まっていた。  一段、また一段と、階段を登る足音が、私と齋藤さんの周りに静かに響く。コンビニの行きと帰りとは違う、シーンとした空気に、私の胸がそわそわと、騒ぎ始める。  あともうちょっとで、齋藤さんとお別れ、か。  そんなことがふと頭をよぎった。  何かしゃべらなきゃ。  そう思うも、中々口が開かない。じれったい焦りが胸の内からこみ上げてくる。ますます会話の糸口がつかめない。そうこうしている間にも、自分達の部屋がある階へ近づいていく。  このままで良いの、私。  自分のその問いかけに、鼓動が大きく脈打ち反発した。その瞬間、齋藤さんと何でもいいから話したくて、私の口が開いた。 「「あのっ!」」  私の声は、彼の声と重なり合ってしまった。  う、うそ……。  申し訳なくて、慌てて齋藤さんの顔を見た。すると、彼も何だか失敗したことを恥じる様な表情をしていた。 「す、すみません。かぶっちゃいました……」  苦笑する齋藤さん。私も慌てて口を開く。  「き、気にしないで! わ、私の方こそ、ごめんね! かぶっちゃって……」 「い、いやいや! そんな、気にしないでください」  互いにあたふたとフォローし合うと、どちらからともなく視線が外れた。私の足取りは、急にぎこちなくなる。階段につまづかないように注意しながらも、『なぜこうなった!?』と内心てんやわんやだった。  齋藤さんと楽しくしゃべろうと思うのに……!  それが急に上手くできない。  ますます、次の言葉が切りだしにくい雰囲気。その間にも、耳を震わす階段を登る静かな音。もうすぐ自分達の部屋に辿り着いてしまう。そんな思いが私の胸を強く締め付ける。  何でも良い。何でも良いの、口にする事は。この際、『齋藤さん』、って名前を呼ぶだけでも構わない。  でも、そこからの続きが無言のままだったら―。  変に気を張ってしまい強ばる体、そして熱を帯び始める頬。  思わず口をつぐんでしまう。  ち、違う。そうじゃない。そうじゃないの! は、早く声を。『齋藤さん』、って呼ぶの、私!  半ば無理やり口元に力を込めて、かろうじて小さく開いた。 「や、山本さん!」 「いっ!?」  ピクン!  びっくりして両肩が跳ねる。名前を呼ばれたのは、私の方だった。  何!? と一瞬考えるも、そんな場合ではないと気付く。顔をすぐ横へ向け、齋藤さんに視線を向けた。齋藤さんは、なんだか戸惑いながらも口を動かす。 「えっと、その……、あれ、ですね」  そう言いながら齋藤さんは、ちょっと視線を泳がす。自分が口にした『あれ』とは一体何なのかを、宙に探すみたいな仕草。私はなんだか分かる気がして、 「う、うん……。あれ、だよね」  と、自然に口を合わしていた。  お互いしばらくだまってしまい、また静かな時間が訪れる。でも嫌な静けさじゃなかった。何かを待つような時間。  齋藤さんが、私に視線を戻した。探していた『あれ』が見つかったように、おもむろに口を開いた。 「えっと……、もうすぐ、着いちゃいますね」  齋藤さんはそう言って、少し笑う。その笑みはどこか名残惜しそうな雰囲気で。でも、なんだか温かみがあって。  だから私も、口元を緩めながら、 「うん……。もうすぐ、着いちゃうね」  と、彼に優しく呟いていた。齋藤さんは楽しそうに笑う。すると、ちょっと表情を引き締めた。  あれ? どうしたんだろう?  「山本さん」 「ん? なに?」 「えっと……、山本さんって、よく夜遅くにコンビニとか、買い物行ったりするんですか?」 「ん~、あんまり行かないかな。今日はちょっと珍しく、出かけたけど……」  便箋を買うために。そう、齋藤さんにポプリを渡したくて、そのことを書いた手紙を書きたくて。結局買えなかったけど、そのことは胸にしまっておく。  その代わりに、私は齋藤さんを優しく見つめ、小首をかしげる。  なんでそんなこと聞いたの? ってサイン。気付いてくれるかな。  すると、齋藤さんが少し戸惑いながらも口を開く。 「ああっ、その……、ですね。何と言うか……、僕、これから帰りが、お、遅くなるんですよね」 「うんうん……、えっと、仕事で?」 「はい。だから……、もしかしたら、これからちょくちょく、山本さんと鉢合わせたりするのかなぁって……」 「あっ……、そういうこと? なるほど~……、そういうこと、ね」   私が軽い口調で答え微笑むと、齋藤さんは気まずそうに笑った。そんな彼を見ているとなんだか心がくすぐったくて。しばらくこの雰囲気に浸っていたかった。 「あっ……、着いちゃいましたね」  でも、彼がおもむろにそう呟いた。  私達は、そのまま最後の一段を登り、立ち止まる。  私の視界に、見慣れた部屋のドアが2つ。  夜のお出かけはここまで。  そんなことを告げられたかのように、私は無機質なドアを見つめていた。
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