一色の下

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 母の初音は、年明け間もない三ヶ月前に特別養護老人ホーム春望苑へ引っ越した。その時の、不安を露わにした表情は今も忘れられない。あまり裕福ではない家に生まれ、奉公のため知らない家へ半ば強制的に連れていかれたこともあったというから、その時の気持ちが蘇ったのかもしれない。  嫌な記憶を思い出させることになったとすれば申し訳ないと思う。しかし、そうでもしなければ共倒れになっていた。仕方ないのだと、その時胸の中で呟いた弁解は、今も胸にしこりを残している。 「お体の状態自体は、ご自宅で過ごしていた頃とあまり変わりはないでしょう。ただ、ご自分で動くことは減ってきているようです」  家にいた頃の母は、専ら車椅子を操って動いていた。そのおかげで目が離せなかったのだが、心配の種が減ったとは思えない。衰えを思い知らされて胸が塞がれるようだった。  エレベーターで母の暮らすフロアに着くと、ナースコールが音を鳴らしていた。若い女の職員が受話器を取ると音は収まる。怒鳴るような声を上げて彼女は飛び出していった。
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