プロローグ

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●● ──僕は、お父さんとお母さんの声を聞いたことがない。 「ねえ、お母さん」  エプロンの裾を引いて呼びかける度に、お母さんはきちんと僕の声を聞き取ってから振り向いてくれる。幼稚園の先生とは違う柔らかい笑みを浮かべながら、台所の隅に立て掛けられた白い板を手に取って、黒いペンでいつもそこに『なあに?』同じ言葉を書き落とす。  毎日が同じことの繰り返し。僕が何か言う度に、お母さんは僕への返事を板の上にせっせと書いて、僕を見る。僕がその瞳を覗き込んでいると、そこにお父さんがやってきて、お母さんはお父さんに何やら指を細かく動かして合図を送る。一本、三本、二本。立てては引っ込めて、両手をせっせと顔の前で動かして。そうやって、二人は僕の知らないひそひそ話をする。  お父さんが僕の頭を大きな掌で撫でてから部屋に戻ると、それをお母さんが追いかける。  パタン。ドアが閉まり、お母さんはその度にいつも部屋の前で立ち止まる。僕はそんなお母さんを見上げてから、もう一度「お母さん」と呼びかける。  お母さんは目元を擦り、悲しそうな顔で『なあに?』また同じ返事をして、僕の手をぎゅっと握る。僕はお母さんの手を握り返し、耳を澄ませた。お父さんの部屋からは、お父さんが毎日聴いている歌が聴こえてくる。 「お父さんとお母さんは、どうしていつも悲しそうなの?」  ──僕は、お父さんとお母さんの声を聞いたことがない。  けれど、いつもその顔を見ている僕にはわかる。二人が悲しそうな理由も、二人が手で話をする時、いつもその気持ちを隠していることも。だって僕たち三人は、家族だから。 「僕、お父さん呼んでくる!」  だから僕は、リビングに戻ろうとしていたお母さんから、手を離した。
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