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「もういいでしょっ! そっちに関係ないじゃん!」
そう言って走り出す。
行先なんか決まっていない。けれどもう家にも居たくない。
千佳(ちか)は玄関のドアが閉まったがどうかも確認せず、振り返らずに走って行った。
両親とは喧嘩がいつも絶えなかった。
内容なんか他の人からみればちっぽけで、どうしようもないことなのかもしれないけれど、何か一言よけいなことを言われればカチンとくるし、それに言い返せば向こうだってカチンときて言い返してくる。
それを繰り返せばほら、簡単に火蓋は切って落とされる。
今回だってそういう感じだ。
(あーもー、どうしてこう最悪なんだろ)
千佳は速度を緩め、少し乱れた呼吸を鎮まらせるように深く深呼吸を繰り返す。
夜中とはいかなくとも、住宅街の夜は人通りが少ない。
車の通りもあまりないここは、人気がないから危険と言えば危険だけれど、大声さえ出せればすぐに人が駆け付けられる場所でもある。
家の近くに公園でもあればそこで時間を潰せるというのに、コンクリートに包まれたこの地区ではそれも難しい。
喧嘩した後、千佳はランニングをするようにこの辺りを一周するというのがもうルーティーンのようになっていた。
「さっさと家なんか出て、一人暮らししたいなぁ」
溜息と共に言葉を吐き出し、落ちていない石を蹴るように足を振る。
スポーツシューズが控えめな足音を立てていれば――別の足音が聞こえた。
(ん?)
カツン、と軽い音。まるでヒールがコンクリートを叩いているような音がするが、そのテンポは随分ゆっくりだ。
なんとなく千佳は歩調を緩め、電灯の下で立ち止まる。
「…………」
前からか、後ろからか。
どこから音が聞こえてくるのかよく分からない。
それでも点々と続く電灯のおかげで暗くない道の先に、ひとつの影を千佳は見つけた。
――――カツン、カツン。
それは足音ではなく、杖をついている音だった。
ほんの少し背中が曲がった、けれどまるでどこかの国の執事のような服装をしているおじいさんで、被っている立派な帽子が、ほんの少し似合っていない。
どうやらいつの間にか緊張していたらしい千佳は相手の姿が見えたことでホッと安堵の息を零した。
「おや、こんな時間にお嬢さんひとりかな?」
するとまだ少し距離のある向こうから、おじいさんが顔を上げて声を掛けて来た。
びくっと肩を震わせつつも、千佳は胸の前で拳を握って頷く。
「え、あ、はい」
「危ないじゃないか。なにかあったらどうするんだね?」
「す、すみません」
危ない目にはあっていないけれど、変なおじいさんに絡まれてしまったと千佳は内心で思う。
「それともなにか、訳ありかな?」
ふふ、と微笑む顔が電灯に照らされ露わになる。
絵に描いたように優しい笑顔。
絵本や小説、漫画に出て来る優しい、老いた執事はこんな人なのかもしれない。ただ、その帽子だけが妙に気になる。
けれどそれを直接聞くほど、もう幼い自分ではない。
千佳は曖昧な笑みを浮かべて「えーっと、まぁ、そうですね」と頷いた。
「親と喧嘩しちゃって」
「おやおや、喧嘩」
少しだけ目を丸め、カツンと杖を前へついて立ち止まる。
だがすぐにおじいさんは「ふふふ」と笑い、とても楽しそうに目を細めた。
「喧嘩かい。それはひとりじゃ出来ないことだねぇ」
「…………」
少し不思議な返しに、千佳は口を開いたまま何も言葉が出てこない。
確かに喧嘩とはひとりじゃ出来ないことだ。それでも。
「でも、別に喧嘩はいいものじゃないです」
拗ねたような言い方になってしまった自分はまだまだ子供だ。
それでもおじいさんの言葉に素直に頷けるほど、まだ大人でもない。
するとまたカツンと杖の音を鳴らしながら、再び歩き始めた。
「喧嘩するほど仲がいい、なんて。そんな綺麗ごとは、聞きたくないよねぇ」
ゆっくりと話すおじいさんは何かを含めたような言い方をする。
「仲のいい喧嘩もあれば、仲の悪い喧嘩だってある」
カツン、と杖の音。
「お嬢さんの場合は、どっちかな?」
けれどおじいさんの足音は聞こえないことに、千佳は気付かなかった。
ゆっくりと同じ電灯の下まで来たおじいさんは、千佳と同じくらいの身長で、きっと腰がまっすぐだった頃なら平均よりも背が高い方だったのではないだろうか。
「今夜はお嬢さんに特別だ」
「え?」
おじいさんはそう言うと、杖から手を離す。
「あ!」
倒れてしまう! と千佳は慌てて手を伸ばしたけれど、その杖はピクリとも動くことなくそこに静かに立っていた。
「どうか、したかな?」
「え、え、え?」
どう考えてもおかしい。それなのに、まるでおじいさんは千佳の方がおかしいような声で言うため、千佳は混乱してしまう。
だが杖がひとりで立つなんてどう考えてもおかしいだろう。
けれどおじいさんは特に気にした様子もなく、あの似合わない帽子のつばを両手で持ち、下ろす。そしてひっくり返し、まるでお鍋を持っているかのように千佳に差し出した。
「これをお嬢さんにあげるよ」
ゆっくりと言った先にあるのは頭を入れる部分が黒く、何も見えない状態の帽子だ。
この似合わない帽子をくれるということなのだろうか。
(い、いらないんだけどな)
だがなんとなく断りづらい空気があり、千佳はゆっくりと手を差し出した。
すると、
「わっ!」
帽子からニョキ! と何かが出て来た。
「えっ、なにっ、どういうこと!?」
驚きに一歩下がるが、おじいさんは「おやおや」と笑い、帽子を持っていた両手のうちの片方を、その帽子から〝生えた〟それを手に取った。
「お嬢さんには――」
するっと抜けた物。
青く透明な、綺麗といえば綺麗だけれど、言ってしまえば何の変哲もない。
「――花瓶、だね」
「……そうです、ね?」
おじいさんは花瓶を片手に持ったまま、再びその似合わない帽子を被った。
「この花瓶にはね、水を入れて、寝る近くに置いておくだけで大丈夫」
ふふふ、と笑うおじいさんに千佳は首を傾げるしかない。
「いつかきっと、これがお嬢さんの……貴方の役に立ちますよ」
そっと差し出された花瓶。
視線だけでそれを見下ろせば、電灯によって輝いているとはいえ、やはりただの花瓶にしか見えなくて、それでも帽子から出てきた謎の物の筈で。
「あ……はい」
自分でもよく分からないけれど、なぜかそれを受け取ってしまった。
「…………」
ただいま、とは言わない。
きっと帰って来たことはバレているだろうけれど、向こうだって話しかけてこないのだ。こちらからわざわざ話しかける必要もないだろう。
千佳はそのまま二階へ上がり、自室へ引きこもろうとしたところでふと、手にある花瓶の存在を思い出す。
花瓶を受け取ると、おじいさんはそのまま千佳を置いて先へ進んでしまった。
真っ直ぐ立っていた杖を取って、カツンと音がしたのは一回だけ。
振り返ってみれば、そこにはもうおじいさんの姿はなく、まるで夢でもみていたかのような感覚だったが、この手の中にある花瓶だけが現実だったことを告げている。
千佳は二階のトイレについている手洗い場で水を入れ、自室へ行く。
電気をつけることもせず、開きっぱなしのカーテンの向こうで輝く月明かりを頼りにベッドの横にある小学生の頃に買ってもらったままの学習机に花瓶を置いて、ベッドへ勢いよく横になった。
「なんだったんだろう、あのおじいさん」
カツンと、杖の音だけが妙に耳に残っている。
このもらった花瓶も謎だし、といいつつもおじいさんの言葉通り水を入れているのもどうなのだ。
「ま、別にどうでもいいか」
ごろんと横になって目を閉じる。
明日はどんな顔で両親のいる下に降りよう。
いつものように仏頂面でいいか。
また喧嘩になるだろうけれど、それこそもうルーティーンなようなものだから、何も気にすることなんてない。
千佳は何度か深い呼吸を繰り返していると、そのまま瞼は自然と落ち、夢の中へと誘われていった。
「んん、まぶ、しぃ」
朝になれば、開きっぱなしだったカーテンの向こう側から刺激的な光が部屋を照らす。
眩しさに目を覚ました千佳は上半身を持ち上げ、目を擦る。
なんか不思議な夢を見た。
戦国武将になって、天下を取る夢というなんとも破天荒な夢である。
「喧嘩ばっかしてるから、相手の首を討ちとったり~なぁんて……」
あくびをしながら横を向けば、花瓶の中に何かが活けてある。
昨日は水しか入れなかったあの花瓶にだ。
「は?」
驚きに目を見開き、千佳はベッドから飛び降りる。
「さ、さくら?」
まるで春に咲くあの桜に見えるけれど、知っている桜とは違って花びらの枚数が多い。
とすると、これは桃だろうか。
「っていうか、どうしてこれが活けてあるの?」
もしかして両親が活けたのだろうか。いや、昨晩部屋に入って来たとは思えない。それとも爆睡していたから気付かなかっただけだろうか。
というか、そもそもこの花瓶はあの帽子の中から出てきたのだ。それだけで怪しいだろう。
「桃の花とか……端午の節句、だっけ? あれそれは五月か。えーっと」
千佳はスマホを手に取り、ひな祭りのことを調べ出す。
「あ、そのままだったわ。桃の節句……と、えっと?」
そこでふと目に留まったのは、桃の花の花言葉だった。
桃の花言葉:天下無敵
「…………」
まるで今日の夢のような花が活けられているわけだが、これはもしかして何かと関連しているのだろうか。
千佳は何度か瞬きを繰り返し、結局それはそのまま放置することにした。
両親が活けたのか。それともあのおじいさんがくれた花瓶が魔法の花瓶だったのか。
人とは不思議なもので、本当に分からない不思議なものは見て見ぬふりをする場合があることを、千佳はこのとき初めて知った。
喧嘩をしていたことなどすっかり忘れ、そのまま一階に降りていく。
「おはよう、千佳」
声を掛けてきたのは母親で、千佳は自然と「はよ」と返す。
すると父親も「おはよう」と挨拶をするのに、「はよう」と、同じように返す。
そして朝食が並んでいる席に座ったところで喧嘩のことを思い出したが、今更蒸し返して不機嫌になるのも可笑しい。
そのまま千佳は朝食を食べて、学校へと行った。
「は?」
学校から帰って来た千佳の机の上の花瓶に入っていた桃の花はなくなっていた。
「ねぇ! 私の机の上にあった花はー?」
「花ぁ? 知らないわよぉ?」
二階から怒鳴るように聞くと、どうやら両親も知らないらしい。
「ほんと、なんなのよ……」
千佳は溜息をついて花瓶を見つめる。
桃の花と一緒に水もなくなっていて、このままやめとけばいいのに、千佳は再び水を入れ、寝る前に机の上に置いておく。
ただの偶然だったのかもしれないし、親がふざけて遊んでいるのかもしれない。
帽子から出てきたこの花瓶の正体は分からないけれど、とりあえずもう一回だけ。
もう一回だけ試してみよう――そうして千佳は瞼を閉じた。
その日の夢は知らない男の人が出てきて、千佳はその人と楽しそうに手を繋いで歩いていた。
夢の中の自分は今より少しだけ髪が長くて、薬指には銀色の指輪が嵌っている。
そして夢の中で私はこう言った。
『結婚式、もうすぐだね』
「は?」
目が覚めた千佳は、花瓶に活けてある花を見て「は?」と再び同じ言葉を発した。
花瓶の中にあったのは、スズラン。
スマホで花言葉を調べてみると、
スズランの花言葉:幸福が訪れる
「いやいやいやいや」
ヒクリと口角をひくつかせ、千佳は首を振る。
「なに? さっきの夢はなんなの? 未来とか?」
そこまで考えてハッとする。
――――いつかきっと、これがお嬢さんの……貴方の役に立ちますよ。
これは未来を見るものなの!?
いや、でもそしたら昨日の天下無敵はどうなるのか。
別に誰かの首を討ちとるつもりなど毛頭ない。
「え、なんか怖いんだけど」
今更といえば今更だが、ようやくこの花瓶の異質さに気付く。
だがこの花を捨てるのも憚れる。
千佳が取った行動は、取り敢えず学校に行って帰り、花が無くなった花瓶にはもう水を入れることはせず、クローゼットの奥に仕舞う、だった。
捨てるにも捨てられない。
こういうのがいわくつきの人形とか言われるものなのかもしれない――まぁこの場合はいわくつきの花瓶だけれど。
千佳はそれから花瓶を使うことなく、そしていつしかその記憶は思い出となり、思い出からそのまま頭の中から消えて行ったのだった。
それから数十年後。
「うん。うん。大丈夫! 一人暮らしの方の引っ越しの手配もちゃんとしてるし。うん。実家はもうクローゼットの中を片付けるだけだから」
髪が伸び、スラリと身長が伸びて大人になった千佳の薬指には指輪が嵌っている。
家の前で電話をする相手は、あと少ししたら旦那になる相手。
「うん、そしたらまた明日。はーい。おやすみ」
微笑みながら電話を切り、ひと呼吸をして家に入る。
「ただいま」
その声は先ほどの電話とは全く違う、硬い声。
「あ、千佳、おかえり」
母が顔を出し、微笑む。
「遅かったな」と父まで出した顔は、皺が深くなり、歳を取ったなと他人事のように感じる。
「今日は泊まるけど、クローゼットの中を片付けに来ただけだから」
「……そうね。もうすぐ今度は彼と暮らすんだものね」
柔らかく笑む顔には喜びと、ほんの少しの寂しさが見え隠れしたけれど、もうどう言ったらいいか分からない千佳は「それじゃ」と逃げるように階段を昇った。
ずっと変わらない、親子関係。
喧嘩は少なくなった。だがそれは関わりを減らしたから。
(ほんと、結婚式の両親への手紙、どうしたらいいのやら)
溜息をつきながら自室へ入る。
一人暮らしを始めた時は、ほぼそのままの状態で家を出たけれど、結婚するにあたって、高校生になっても使い続けていた勉強机はもう処分した。
ベッドは残しておけと父に言われ、仕方がないからそのまま置いてある。
あとはクローゼットの中を片付けて、いるものは新宅へ。実家に置いておくものなどほぼないため、捨ててしまおうと考えているけれど、もしかしたらまた止められるかもしれない。
それはもうその時で仕方がないと諦めながらクローゼットを片付け始めると。
「そういうところが面倒なのよねぇ……って、あれ?」
その奥に何かがある。
手を伸ばして掴めば、それはいつかの日、謎のおじいさんにもらった花瓶だった。
「あー、こんなものもあったなぁ」
今なら笑える不思議な出来事。
だが当時は不気味で怖いものだった。
「そうだ!」
千佳は笑い、小走りで水を入れに行く。
そして机はなくなったため、ベッドの脇に置いて「よし」と頷いた。
自分が今日寝る場所はここだ。もう少し片付けをしてから横になろう。そして夢を見て、また花が咲いたら新宅に持って行き、旦那になる彼にも見せて一緒に楽しもうではないか。
千佳はクスクス笑い、片付けを終わらせると早々に横になる。
そして目を閉じれば――やはり夢を見た。
『ママぁ』
『あらどうしたの千佳』
『転んだぁ』
『えっ! ちょっとやだ! 血ぃ出てるじゃない!』
『パパ』
『なんだ』
『新聞楽しい?』
『そうだなぁ。まぁまぁかな』
『まぁまぁなのに、どーして読むの?』
『色々知っておかないと、いざというときにママのことも千佳のことも守れないからな』
『千佳! どうして黙って出て行くの!』
『今日の朝に友達の家に遊びに行くって言ったじゃん!』
『それなら、いってきますくらい言いなさい!』
『っるさいなぁ! 分かってるんだからいいじゃん!』
『おい千佳、ママ泣いてたぞ』
『お父さんが慰めればいいでしょ』
『そういう問題じゃないだろう。パパだって』
『パパじゃないし。“お父さん”だって何回も言った』
『私、一人暮らしするね』
『そう』
『千佳が決めたんだ。反対はしないさ』
『ちょっと、まぁた荷物届いたし』
『――千佳の好物だった干し芋を送ります』
『お母さんも好きなんだから、食べればいいのに』
下手すれば、この夢は走馬灯のようなものだったのかもしれない。
小さい頃から、大きくなった今までの家族との思い出。
喧嘩が絶えなくなったのは昔からじゃなくて、反抗期を迎えてからだったんだね。
一人暮らしの当初は、料理なんてしたことが無かったから、ママの凄さとか、実は感じてた。
パパがね、見守ってくれてたのも知ってたよ。
手紙には書かれてなかったけど、よく分かんない色々な絆創膏とか湿布とか入れてくれたのパパでしょ。
だって救急箱を手にしてたのはいつもパパだもん。分かるよ。
一人暮らしして、数年経って、結婚する私。
今更なんだよ。全部。
実家の片づけとかさ、元々全然帰ってなかったんだから。
でも。
でもね。
「…………」
目が覚める。
ぼーっとした頭で、なんとなく花瓶の方を見れば、あの頃と同じように花が活けてある。
ピンク色の薔薇に、かすみ草。
何も考えずにスマホに手を伸ばして、やめる。
結婚式までもうすぐで、彼と一緒に飾る花を探した。
その時に、この花たちの花言葉をもう見たのだ。
「っ――――」
千佳は唇を噛みしめ、立ち上がる。
そして走って一階へと駆け下りた。
その短い距離なのに息が乱れて、胸が痛い。
バカだなぁって思って、でも仕方がないよねって笑って、それでもやっぱりちょっと後悔があって。
「ママ、パパっ」
驚いた様子の二人は夢の中で見た時よりも歳を取っていて、あぁやっぱり私はバカだったと笑った。
「私のこと、産んでくれてっ、育ててくれてっ、一緒にっ、いてくれてっ」
涙がぼろぼろと零れる。
親不孝者で、ごめんなさい。
今更で、ごめんなさい。
でも、心から――――
「ありがとうッ!」
ピンクのバラ、
かすみ草の花言葉:感謝
「ほうらね」
カツンと杖の音が響く。
「貴方の役に立ったでしょう?」
END
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