第1章 呼び出しは突然に

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五分ほど歩いて連れてこられたところは最近、部内で話題に上がっているカジュアルイタリアンの店だった。 ……もしかして、視察? 規模こそ大きな店ではないが、オーナーが変わってメディアへの露出が増えた。 お客も増えて評判は上々、近々、二号店の開店を皮切りに全国展開も計画しているという噂もある。 そこで、うちの会社でその材料物流を取れないかという話が出ていた。 だから実際にお店に行ってみて、うちの商品とマッチングするかとかさりげなく事前調査したいんだと思う。 私が勤めているのは、業界最大手の業務食品卸の会社だ。 こういった視察や、お客様に頼まれて、とかで食事に行くのはよくあること。 視察だとしたら、もしかして私の考えすぎなんだろうか。 それに、みんなあの男みたいな人間であるわけもない。 少しだけ警戒を解くと同時に、お盆休み明けで淋しいお財布の中身が気になった。 黙ってお店に入る片桐課長に続いて入る。 予約してあったらしく、すぐに席に案内された。 「なんでも好きな物を頼め。 金は気にしなくていい」 「もしかして経費で落とす気ですか」 「は?」 メニューを開こうとしていた片桐課長の手が止まる。 視察といったって、よっぽどのことがない限り経費では落とせない。 なのに自分の役職で無理矢理落とそうとするなんて、酷い。 「……デートの金を経費で落とす莫迦がどこにいるんだよ」 「はい?」 メニューに視線を落としたまま、ぼそっと呟いた片桐課長がなにを言っているのかよく聞こえなかった。 「なんでもない。 俺が払うんだから問題ないだろ」 ほんの少し不機嫌そうに眉を寄せ、片桐課長はメニューを見続けている。 全くもって意味がわからない。 少しは説明してほしい。 「決まったか?」 「えっ、あの、えっと」 慌てて片桐課長に向けていた視線をメニューに落とした。 けれど緊張からか、なにを頼んでいいのかわからない。 「もう俺が、適当に頼んでいいか?」 「あっ、はい。 それでお願いします」 軽く手を上げて店員を呼び、片桐課長は注文をはじめた。 「……以上で。 あと、赤ワインのハーフボトルと、……笹岡は酒が弱かったな。 じゃあ……」 テキパキと注文する片桐課長をぼーっと見ていた。 というか、なんで私がお酒に弱いって知っているんだろう? 飲み会なんて、一、二回しか参加したことないのに。 運ばれてきたお酒に、一瞬、躊躇した。 「軽めのカクテル頼んどいたから、別に問題ないと思うが。 もし酔いつぶれても襲ったりしないから心配するな」 おかしそうに片桐課長はくつくつ笑っているが、私としてはお酒の失敗は二度とごめんなのだ。 ……一杯くらいなら、大丈夫。 そろりとカクテルを口に運ぶ。 甘めのお酒は私の緊張を少しだけ解いた。 「……美味しい」 「なら、よかった」 ふっ、僅かに笑った片桐課長の顔に心臓が一回、大きくどくっと鼓動した。 ……なんだろ? でもきっと、アルコールが入ったから、だ。 そのうち料理が運ばれてきて、無言で食べた。 なにか話すべきなんだろうけど、共通の話題が見つからない。 片桐課長も黙っている。 「そういえば、さ」 食事も中盤を迎えた頃、ぽつりと片桐課長が呟いた。 「本島(もとじま)さん、酷いんだぞ? 自分のとこで一桁間違って多く仕入れた奴、俺のとこに押しつけてくるんだ」 「……それ、うちにもきました。 仕方なく原価ぎりぎりで、社員で分けましたけど」 「ほんとムカつくよなー」 ……はぁーっ、と片桐課長は大きなため息をついている。 一課の本島課長から押しつけられた、大量の豆腐事件はまだ記憶に新しい。 豆腐なもんだから賞味期限は短いし、量も半端ないし。 私は実家暮らしなのと、それに冷凍して使う技を知っていたのでなんとかなったけど。 泣く泣く捨てた人もいるって話。 「それでさー」 それできっかけを掴んだと思ったのか、そのまま片桐課長の愚痴がはじまった。 ――共通の話題がそれしかないのはわかる。 わかる、けど。 愚痴を延々聞かされるのは結構苦痛。 「……って。 こんな話を聞かされるのは退屈、か?」 ええ、もう。 そう思っていたはずなのに、しゅんとした、まるで捨てられた子犬のような、片桐課長の顔に、身体が勝手に首を横に振っていた。 「よかった」 片桐課長が、笑う。 それはもう、眩しいくらいの笑顔で。 というか、こんな片桐課長は初めてで、なぜかまた心臓が大きく跳ねた。 お店を出たのは九時少し前だった。 「ごちそう、さまでした」 「ああ」 一歩前を歩く、片桐課長の次の言葉を待つ。 「その、私は電車ですが片桐課長は?」 「俺? 俺はバスだけど」 片桐課長は後ろも振り向かずにどんどん歩いていく。 どこに行くつもりなのか不安になった。 けれど、着いたところは駅だった。 「これ。 もう遅いし、タクシーで帰れ」 手を取ってのせられた一万円札に拍子抜けした。 ……本当にただの、食事だったんだ。 「あの、まだ余裕で電車ありますし、全然」 「……なら。 駅からタクシーで帰れ。 わかったな?」 じっと眼鏡の奥から片桐課長が見つめている。 その真剣な瞳になにも言えなくなって、押しつけられた一万円札を受け取った。 「釣りはいらん」 「でも」 「いいから」 不機嫌そうにふぃっと片桐課長は視線を逸らした。 そこまでされると返す言葉がなくなる。 片桐課長に見送られて改札をくぐる。 電車に乗るとため息が出た。 ……いったい、今日はなんだったんだろう? 意味がわからない。 だけど、駅から家までタクシーで帰れって言ってくれたのには感謝だ。 実家通いの私は通勤時間が一時間を越えているので、いまからだと帰り着くのは十時を過ぎる。 それに最近、近所の公園で痴漢が出て騒ぎになっていたから。 ぼーっと窓の外を流れる街の灯りを見ていた。 もうあんな思いは二度としたくない。 恋なんてしないと固く誓った。 だから、男の人とふたりっきりになるなんてごめんだと。 なのに今日、強引に誘われたからといって、片桐課長とふたりで食事をした。 いや、強引に誘われて断れなかった時点で前回の二の舞なのだ。 今日は幸い、なぜかそんなことはなくてよかったが、次はわからない。 「次は絶対に断る」 暗い窓硝子に映る自分の顔は、酷く思い詰めていた。
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