第一章

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 壁にかかった古い地図の、村の形をなぞる。口に含んでいた塊が少し溶け、甘みが滲み出てきた。それとは対照的な味の結晶を思う。この村は、塩に苦しめられる運命なのだろうか。  かつてのシルヴァ国(・・・・・)が戦に負けて解体されたのも、海に面した敵国サリスに塩の補給ルートを断たれ、兵も民も病に倒れたからだという。岩塩坑でもあれば、結果は違っただろうに。今やこの地は戦の功績者に下賜されて、サリス国クレセンス領、旧シルヴァ村(・・・・・・)だ。  他国との戦があった頃は、傭兵として領主の兵に加わることで稼いでいたらしい。しかし戦のない今は、なけなしの家畜や麦を売るしかない。  町で牛の飼料に使われる甜菜(ビート)も作っているが、今年の冬はそれすらも食べた。(かぶ)に似ているものの、妙に強い甘みと、どれだけ煮ても抜けない泥臭さは驚くほどの不調和で、食用に向かないと伝えられる理由が分かった。  食べたが。  山菜のあく抜きのように灰を使ったり、水にさらしたり、皆で試行錯誤した結果、食べられないほどではなくなった。  煮汁から、甘みだけが詰まった塊ができるという発見もあった。今まさに口に入っているものだ。色や触感は砂だが、噛むと溶けるし、味はいい。これまでは甘味といえば蜂蜜だった。けれど冬は品薄で高い。こうして気軽に糖分を摂取できるのは嬉しい。  嬉しいがーー飼料を買って冬でも牛を飼える連中と、森に木の実のない冬は豚も養えない俺たちの、この差は何だ。今回の決闘の勝利ごときで、この差が埋まるものか。いや埋めないといけないのに。  苛々する。これなら夜盗を蹴散らしていた方が、気持ちも晴れるだろう。    しかし今日の非番は、皆の心遣いだ。無下にするわけにもいかない。当番が持つ警鐘が鳴ったら、駆け付けるとしよう。眠れそうになくて、わざわざこんな時間に火を起こしたおかげで、灯りはすぐ用意できる。いつでも戦いに行ける。  舌の上の甘味と共に、煮える感情を飲み込んだ。少し体を休めなければ。    効果はないのに麻のシーツの煤をはたくのは、もはや癖。藁のベッドに腰かけ、そこに並べたままの戦利品に触れる。  白薔薇が一輪。舶来品の小箱。そして貴人然として横たわる、柄に黄金を巻いた一本の剣。    薔薇を手に取る。丁寧に棘の取り除かれたそれが、摘まむ指を、香りを嗅ぐ鼻腔を、見つめる目を、ちくちくと苛む。  幼い頃、花を盗んだ。こんなふうに真っ白い薔薇を。    今日、この手で殺めたかつての親友、ラウリエと共に。    隙間風が運んでくる香りが、手元の切り花の芳香と混ざり合って、思い出を鮮明に蘇らせる。  ありふれたライラックの紫すら華美に映るような曇天の、弔いの朝のことだった。
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