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第5章
ビニール傘に当たる雨粒の音が止みません。
鉛のような深遠な雲が夜空を覆い、ビル群は冷たいシャワーを浴びたように震えていました。
老人は、閉店した老舗百貨店の南側正面玄関脇にダンボールと新聞紙の寝床を設け、雨が当たらないように3本のビニール傘を広げて凌いでいました。
古びた毛布に包まりましたが、雨音と寒さのためなかなか寝つけません。
老人は、今朝、突然現れたあの美しいマリア様のような少女のことを思いました。
クリーム色の長い髪と碧い瞳、そして小鳥のさえずりのような爽やかな声と去り際に残した言葉…
おじいさん
ありがとうございます
ベートーヴェンのピアノソナタ第8番
「悲愴」第2楽章ですね
………
おじいさん
わたしの名前はハルナ
きっと必ず戻って来ます
どうかここで待っていてください
………
老人は、寒さで冷たくなった細い腕を古びた毛布から出し、目を閉じてゆっくりと年老いた細く長い指で、今朝のようにふたたび架空のピアノを弾き始めました。
曲目は迷うことなく、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章…
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………
老人は、架空のピアノを弾きながらクリーム色の長い髪の少女の、澄んだ碧い瞳を思いました。
そしてピアニストを目指していた若かった頃に、とくにベートーヴェンを熱く信奉していた最大の理由へ思い至りました。
ベートーヴェンがピアノソナタ第8番「悲愴」に込めた強い思いとともに…
ぼくの芸術は
貧しい人々の運命を改善するために
ささげられねばならない
………
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