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特別回 vol.29 小説の書き方を考える
まずは配信冒頭で紹介した、秋月 一成さん著『☆彡エブリスタ・コンテスト統計学☆彡』である。積み上げたデータに裏打ちされた考察には舌を巻く他なく、受賞を目指す書き手にとって実に有益な書物である。ここにURLを貼っておく。
『☆彡エブリスタ・コンテスト統計学☆彡』秋月 一成さん
https://estar.jp/novels/25688917
さて、勉強会と銘打って小説を書く上で悩ましい問題を、2つ取り上げて配信を行った。
この試みを実際にやってみるまでは不安しかなかった。すなわち、「こんなん悩んでるの、わしだけちゃうか?」「こんな悩み、レベル低いんちゃうか? 皆さんに鼻で笑われるだけちゃうか?」という思いがあったからである。
しかし蓋を開けてみれば、私と同じようなことで悩んでいる方が複数いらっしゃったようで、私の不安は杞憂であったことを悟ったのである。思い切ってやって良かった。
前半は、「わたしは泣き顔になった」という表現について考えた。
一人称で物語を進めている場合、主人公は自分の表情を実際に見ることはできない。このことを鑑みるなら、上記の書き方はおかしいということになる。
しかし「赤ちゃんでもなければ、今自分が泣き顔をしているか笑顔でいるかくらいはわかるのではないか。であるとすれば、この書き方は間違いとも言い切れないのではないか」というのが私の考えたことである。これについて実に多くの方がコメント欄にて考えを寄せてくださり、ありがたかった。
後半は、さらに答えのない問いに没入していった。ある会話文を入れるか取り去るかという問題である。
取り上げた箇所は、会話文の直前の地の文によって主人公の意図は伝わるようになってはいるが、読者側からすればある程度の知識があるか相当じっくり読んでいなければ、その理由を理解できない懸念があった。そこで読み手の理解を促進させる目的で、主人公に自身の気持ちを吐露させたのが件の会話文である。
このような微妙で繊細なことをどうすればいいかという回答は、おそらくネットには書かれていないことと思う。
これはもはや書き手の好み、或いは読者をどこまで信頼するかというような、技術を離れた領域で答えなどない問題なのではなかろうか。
ではなぜ答えのない問いを考えるのか。答えがないのだから、好きなように書けばいいではないか。
それはたしかに一理あるであろう。しかし、私は自身の小説を書く実力を何としてでも向上させたい。私だけでなく、多くの書き手がそうであろうと思う。
独りよがりの作品は芸術とは言えぬ。すなわち、小説を書く実力を磨き上げるには、他者の目線で考えることや、多くの意見に触れ一般的に読み手がどう読むかを知ることが大事であると私は考える。
今回の配信でそれぞれの書き手の方々が、ご自身なりの気づきというものを得てくださったのなら、こんなにうれしいことはない。
繰り返しになるが、答えのない問いを考えても解は出ないし、そもそも私は答えというものを信用していない。では悩むだけ無駄なのであろうかというと、そうではない。諦めずに考えに考えた結果、ときに自身の進むべき道が開けることがある。その道は、もしかしたらまだ誰も分け入ったことのない道かもしれないのである。
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