羊と獏

5/13
前へ
/13ページ
次へ
 大学一年生の頃から、僕は授業以外、図書室に籠っていた。もともと読書が好きで、活字の上で活躍する主人公に自分をあてはめては、僕は一人ぼっちの現実から目を逸らした。ぱらぱらとページをめくる音だけが響く静かな空間は、学部数が少ないため、自習する学生もほとんどいない。そんな図書室に、毎日顔を出していたのは僕と、彼女だけだった。  彼女の名前を僕は知らない。学年も、学部も、サークルに入っているのかも、僕は知らない。華奢な体に細く伸びたまぶた。黒縁の眼鏡をかけて、長い透き通った黒髪をヘアゴムでまとめている以外は、経済学部の女子たちとは違い、自分を飾らない。装飾など不要と言わんばかりに、必要最低限の身だしなみと、利便性を重視したリュックを担いで図書室に現れる。彼女はいつも、分厚い辞書と何冊かの本を机に置き、ノートに黙々と何かを書いては、夕方になると帰っていく。資格の勉強なのか、自作小説の執筆なのか、彼女がノートに何を書いているのかは、僕には一切分からない。  それでも一つだけ確かなことがある。それは僕が、彼女に対して特別な思いを抱いているということだ。あの人の名前を知りたい。どこの学部で何を学んでいるのか。年上なのか、それとも同学なのか。何を書いていて、どんな本が好きなのか。そして、彼氏はいるのか。僕はいつも悶々とした思いで彼女を見つめては、声をかけることも出来ずに、一日を終える。  大学に残りたい。たとえ彼女に声をかけることが叶わなくても、僕は毎日図書室に通って、彼女のことを見ていたい。白い肌、細くすらっとした首元、それにうなじ。恬淡(てんたん)な彼女の姿は、僕にとって退屈でつまらない日々の、唯一の癒しとなっていた。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加