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 ミツキは、頬を撫でる暖かい風にハッとして目を開き、自分が今いる場所を確かめた。 「なんで、俺は桃源郷にいる?」  いつもは、山にある自分の社にいるはずなのに、目が覚めたら桃源郷なんて浮かれた場所に来ていた。周りに漂う仙桃の甘い香りが二日酔いの頭痛に拍車をかける。  酒を飲んで桃源郷で眠っていたなどと他の神に知られれば、また「これだから落ちこぼれは」と影口を叩かれるだろう。  ただ、ミツキはそんな陰口なんてものは、もうどうでもいいことだと思っていた。  真面目に修行していたのに、その成果もなく大事に守っていた人の子が亡くなったと知れば自棄酒だってしたくなる。  周りの神々に笑われることだって、笑われて当然のことだとミツキも分かっていた。  昔修行中に現世で出会った人の子の那津が少し前に病で死んだ。下界と天界は時間の流れが異なっている。きっと今頃、那津はもう別の新しい人生を歩んでいることだろう。  そして、自分と出会った過去の記憶もきれいに消えているかもしれない。  酒で霞む頭をふると、自分が何かに抱きついて地面に伏して眠っていたことに気づく。 「何……いや、誰?」  ミツキは死装束に身を包んだ瘦せぎすな青年を抱きしめて寝ていた。死者が死出の旅路の途中で道に迷うことは、たまにあることだった。  ただ桃源郷にくるなんてことは聞いたことがない。  迷子の亡者を裁判所へ送迎するなど神である自分がする仕事ではないが、それでも、このまま放置しておく訳にもいかなかった。  ため息を一つ吐くと、揺すって起こすことを試みた。 「起きろ、お前、裁判の前の亡者だろう」 「うぅ、ん。ミツキ。起きたの?」 「は?」  顔を上げて自分の名を呼ぶ男を見て、ミツキはその場で硬直した。今まで抱きしめていた男は、下界で修行中に出会った子ども。  けれどあの頃小さかった子どもは随分と大きくなっている。  ずっと見守っていたのだからそんなことは知っていた。  柔らかい笑みと、優しげな瞳。変な格好で寝ていたためか、細い猫っ毛が変にはねて顔にかかっていた。  忘れるはずがなかった。ずっと、この子の幸せを願っていた。  ――ずっと会いたくて、それでも、会いたくない、会ってはいけないと思っていた人間の子どもだった。 「おはよう。もう酔いは覚めた? ミツキ」 「……那津」 「そうですよ。那津です。ちゃんと覚えていたんですね。ミツキ」  やっと言葉を交わすことが出来た那津は、ふわりと花が咲き誇るような笑みを浮かべミツキの頭を優しく撫でる。深酒してあまり覚えていないが、昨晩も同じように那津は自分の頭を撫でてくれていたような気がした。  あまりに突然の出来事で、すでに酔いなど冷めていた。ミツキはその手を反射的に振り払った。 「なんで、ここに、こんなところにいる」 「兎さんが言っていたこと本当だったんだ。ミツキと会いたいって願いながら歩いてたらここに」 「うさぎ、だと?」  ミツキは一瞬で怖い顔になる。 「宇多さんっていうミツキの神使だって死ぬ前に聞いたけれど……あ、いけない秘密だったんだ」  ミツキは那津の言葉を受け、眉間のシワをさらに深くする。  次の瞬間、地を這うような声で、その名を呼んだ。その大きな声は桃源郷に響き渡る。 「おいっ、宇多! 来い!」  声のあと、すぐに白い煙とともに兎が現れた。 「はい。ミツキ様、およびですか」 「お前、那津に何を言ったんだ!」  宇多は那津とミツキの顔を交互に見比べると、目を瞬かせ感心したような声を上げる。 「おぉ、やっぱり、縁が繋がっていたのですね。さすが、ミツキ様の縁の糸はすごい」 「もしかして宇多さん? 下界ではどうもありがとう、無事にこちらに来ることが出来ました。それにミツキにも会えたんです」 「いえいえ、よかったですね、那津さん」 「おい、なに勝手に話を進めているんだ。宇多、いつまでも兎のなりしてないで、元に戻れ」 「はい、ただいま。ミツキ様」  宇多は、返事をすると飛び上がり、くるっとその場で一回りする。煙の中から再び現れたのは少年だった。 「わー、宇多さん変身もできるんだ」 「神使、ですから。現世でも言った通り、動物は仮の姿ですよ。こちらが本当の姿です」  そう言いながらも、兎の耳は頭の上についたままだった。白髪の少年だが、巫女のような緋袴を着て可愛らしい姿をしている。 「宇多。それで、なんで、お前が、那津と会っているんだ。俺は聞いてない」 「聞いてないって、あの頃ミツキ様、社にお籠りになっていたじゃないですか、それで私が下界におつかいに行ったんですよ」 「え、ミツキ病気だったの、大丈夫?」  那津は、心配そうな顔をしてミツキの顔を覗き込む。ミツキはばつの悪く感じて顔を背けた。 「……病気じゃない。機嫌が悪かっただけ。那津、お前は少し黙ってろ」  那津はこくりと頷いた。 「ミツキ様、誓って、私が那津さんと出会ったのは山を下っていた時に、あくまで偶然にですよ」 「偶然……」 「まぁ、偶然じゃないかもしれませんが、もしミツキ様が願っていたとすれば、私が那津さんに出会うのは必然だったのかも。私はミツキ様の神使なので、貴方の願いは私の願いです」 「だとしてもだ。お前は、何故、那津に神の国の話をしている」 「それは、聞かれたから、ですが。特に亡者へ話してはいけないことは言っていないはずですよ」  宇多はそう言って胸をはる。確かに宇多が那津に話した死者の国の話などは、下界でも本を開けば、いくつか似たような事例で出てくることだ。  死期が近い人間が、死者の国の情報に触れ書物に残すことがある。絵本でだって地獄や天国の話は存在する。別に宇多が特別なことを那津に話した訳ではない。 「それに、那津さんが、死出の旅の途中でミツキ様と出会えるかどうかは、縁の糸が繋がっているかどうかですから、もともと縁を繋いだのは、ミツキ様ですよ? 私がここへ那津さんを呼んだわけじゃありません」 「だが、那津が願わなければ!」 「私が、出会った時、すでに那津さんはミツキ様と会いたいと言っていましたし?」  ほら、私は悪くないですよと言ってきゃらきゃらと笑う宇多の頭を、ミツキは拳で殴った。 「いたひ、酷い、ミツキ様。本当のことなのに」  確かに、下界で修行をしていた時、一番最初に那津と縁の糸を繋いだのはミツキだ。けれど、そんな糸は、那津が思い出さなければ決して引かれ合うことはなかった。 「ミツキ、宇多さんは私が迷わないようにって、死出の旅のことを色々教えてくれたんだよ。怒らないで」 「それが、いらないことなんだ!」 「ミツキに会いたいって思うのがそんなにいけないこと?」 「あぁ、そうだ」  ミツキは那津に向かってそう告げた。 「どうして!」 「神が亡者を道に迷わせるなど許されることじゃないからだ! いいから来い! 宇多、お前は、第一裁判の秦広王へ今からミツキが迷い子の亡者を連れて行くと連絡しておけ」 「けれど、良いのですか? せっかく会えたのに……最後の別れくらいもっとゆっくり」  宇多は寂しげな表情を浮かべて言い淀む。 「死後に会いたい者に一目会うことができる亡者の権利……那津が俺に会いたかったというのなら、それは、もう叶っているはずだ。それに、ぐずぐずしていると、裁判官の心証が悪くなるだろう、七日の期限は絶対だ。そもそも、こいつは川を渡っていない。そんな亡者なんて俺はみたことがない」 「……わ、分かりました。仰せのままに」  宇多は、そういうと現れた時と同じように目の前から煙とともに消え去った。 「ほら、行くぞ。那津」  ミツキは、那津の手を握って歩き始める。 「ミツキ、聞いて、私はね」  ミツキは那津の顔を見ることができなかった。神だというのに、ありえない状況にずっと動揺したままだ。  桃源郷の華やかな場所を通り抜けると、昨晩那津が歩いてきた最初の分岐の丘まで戻ってくる。 「どうすれば、裁判前の亡者が桃源郷なんかに迷いこむんだ全く」 「それは、私が願ったからで」 「……子どものころに、少し出会っただけだろう。どうして、死んでから会いたい奴に俺なんか一番に願った? 親とか友達とか」 「そりゃ、ミツキにとっては、私はそれほどかもしれないけど、私にとってミツキは大切な……大切、だったんだよ」  那津の声が段々と小さくなっていく。子どもの頃にミツキと出会い、遊んだ思い出は、死ぬ間際になっても那津の心に色褪せることなく残っていた。  ミツキだって那津が、ずっと自分に会いたがっていたことを知っていた。  ミツキは苦虫を噛み潰したような表情になる。 「宇多が、下界で余計なことを言ったかも知れないが……那津、裁判でおかしなことを言うなよ」 「おかしなことって?」 「知らないならいい」 「ミツキ、あのね、これだけ分かって欲しいんだけど、私は道に迷ってないよ」 「迷ってるだろう、現に死者の裁判の道から逸れているだろ」 「私、ここへ来る時、ミツキと会うことだけを願って来たから、迷ってなんかない」  那津の目はまっすぐにミツキを捉える。 「だったら……もう、気が済んだだろ」 「どうかな? 私ね、結構、欲深い人間だったみたいだし」  那津は含みのある笑顔をミツキに向ける。 「おい、那津、本当に、宇多に何も聞いていないんだろうな」 「ねぇ、ミツキ。私が、ミツキともう少しだけ、ここで一緒に過ごしたいって言ったらやっぱり困る? 最後、なんだよ」 「……当たり前だろう」 「そう、だよね」  那津はそう返すと、寂しげな顔で遠くを見つめていた。
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