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 その日の仕事が終わり、手渡された紙に書かれた地図を頼りに家に向かう。  そこにあったのは、あばら家だった。  建てつけの悪い玄関の引き戸を開けて一歩中に入ると、途端に一日の疲れが、どっと襲ってくる。死んだことで、病気は治っても、体力も体つきも死んだときのままだった。  ここへきて自分の望みが叶い、全てが手に入ったなんて思ってしまったが、やっぱりそう全てが上手くいくわけではない。  それでも、病気のせいで端から多くのことを諦めていた現世のことを思えば、何でも出来るのは嬉しかった。  きっと体も時間が経てば慣れてくるのかもしれない。  労働に対しての対価は金品ではなく、衣食住の不自由なく死者の国で暮らせること。  那津は、それの意味するところが最初は分からなかった。けれど、家の中に入って初めてその意味を理解した。  買い物に出かけていないのに、家の中には生活に必要なものが一通り揃っている。  誰かが部屋に入って補充したという形跡もない。きっと、必要なものが必要なときに全て揃う。この世界の仕様なのだろう。  一人暮らしには大きすぎる一軒家は、どこにいても落ち着かなかった。囲炉裏のある居間に一人膝を抱えて座って息を吐く。 「一人……なんだよね。私」  自分で望んだことだと分かっていても、この広い一軒家にいるとひとりぼっちだという事実をまざまざと突きつけられる。  自由と引き換えに得た孤独だった。現世にいる時は、家族がいた。年の近い親しい友人は得られなかったが、それでも、話せる誰かがいた。  けれど、今は周りには誰もいないし、ミツキには自分の選択を否定されている。 (自分で選んだんだから……後悔したりしない) 「そうだ、ご飯、作ろ……」  けれど、一人きりの家で何もやる気が起きない。そもそも死んでいるから空腹を感じなかった。もしかしたら、食事もここでは必要がないのかもしれない。  ――死んでから、自分の生を生きようとしている。歪な形であることは理解している。  食べる必要がなくても、何か口が淋しい気がして、宇多からもらった桃を食べることにした。入院生活ばかりしていたので、桃を自分で剥くくらいはお手の物だった。  台所で、綺麗にくし切りにした桃を皿の上にのせて居間に戻ってくる。 「おいしい……」  ただ、そのおいしいという言葉は虚しく部屋に響いた。  元気が出るからともらった桃だけど、心の方はどうやっても食べ物では解決できないらしい。  しばらく食べていると、ふいに、目の前がくらりと揺れた。 (あれ、視界が……)  次の瞬間、自分の意思に反してぽろぽろと涙が溢れてくる。何も悲しいことなんてないのに。それは突然の出来事で、那津は戸惑いを隠せない。  病気のつらい治療や、楽しみにしていた学校の行事に参加できなかったときだって、那津は、いつも仕方ないと笑っていた。  涙なんて流したことがなかった。  それなのに、死んで初めて泣いていた。 「宇多さんに、もらった桃が美味しかったから、かな。だって、何も悲しくない」  ただ、自分でも分かっていた。悲しくなくても、淋しくても涙が出る。ただその気持ちを認めたくなかった。  子どもの頃ミツキに出会ってから、泣いたことがなかった自分は、上手な泣き方も知らない。誰もいないのだから、声をあげて泣けばいいのに、その心を無理やりに耐えてしまう。  抑えた声に、息が苦しくてその場で倒れこんだ。 「っ、うぅ、いや、だ。泣きたく……ないのに」  那津の意地だった。「現世で那津が明るく楽しく元気に暮らせますように」というミツキの願掛け。那津はそれを叶えたかった。他の誰でもない、ミツキが願ってくれたから。  涙を拭おうと近くにあった手ぬぐいに手を伸ばした時だった。唐突に玄関のガラス戸が乱暴に開く音が聞こえ、バタバタと大きな足音が自分に向かってくる。  勢いよく襖が開く。  そこには、ミツキが立っていた。 「……宇多が、お前に仙桃やったっていうから、くそ、遅かったか」 「ミツ……キ」  ミツキは畳に転がっている那津のところまでくると、しゃがんで那津の目の前に膝をついた。 「大丈夫か?」  ミツキが、自分の目の前にいることが嬉しい。けれど涙で濡れたぐちゃぐちゃの顔はすぐに元には戻らない。那津は慌てて手ぬぐいで自分の顔を隠した。 「おい! 大丈夫かって聞いている」 「大丈夫、大丈夫だから、私の顔……見ないでくれる、ミツキ」 「何で」 「何ででも、あのね、私いま変な顔してるから」 「お前の顔なんて……もう、飽きるほど見てる。……別に飽きやしないけど」 「すごいね、神様は……現世のこと何でも見えるんだね」  努めて明るい声で返すけれど、涙は止まらなかった。 「何でもは見えない。だから聞いているんだろう、大丈夫かって」  ミツキは那津から手ぬぐいを無理やりに奪った。そして顔を近づける。 「……ミツキ」  那津の感情を一生懸命に読み取ろうとしているようだった。しばらくして、ミツキは一言「わかった」と告げる。 「何が、わかったの?」 「大丈夫じゃないだろう。お前が泣いているところなんて初めてみた」  ミツキは那津の頬に伝う涙に人差し指で触れた。 「これは、だから。宇多さんがくれた桃がおいしくて、だから」 「泣くほどおいしいのか? 亡者が仙桃なんて食っても毒でしかないだろう」 「っ、ど、毒……」  毒と言われて那津は体をびくりとさせる。死んでいる人間が毒を飲んだらどうなるのだろうか。ここから、いなくなることだけは嫌だと思った。そう思うとさらに涙が溢れてくる。 「わ、私、死、死ぬの?」 「もう死んでるから、死なない。仙桃はいってみれば強い酒みたいなものだ。確かにこの世界の住人が食べたら楽しい気分になって元気になるかもしれなが、亡者には強すぎる」 「……じゃあ、酔ってるってこと?」 「あぁ、亡者が仙桃なんか食えば自分で心を制御できなくなる。たがが外れるんだ」  心を制御できない。ミツキにそう言われて那津は自分で無理やり抑えていた心を思い知る。孤独で、寂しくて、悲しくて、痛くて、苦しくて。そんな思いを誰かにぶつけたくてたまらなくなる。縋り付きたい。けれど、その気持ちは自分の中で「ない」ものだった。あってはいけないものだった。 「俺のせいだな」  ミツキは次から次へとあふれる那津の涙をそっと拭う。 「ち、違う、違うよミツキ。私は、ミツキのおかげで明るく楽しく元気に」  現世で楽しく生きることが出来た。それは事実だ。 「でも、病気は治らなかっただろ」  ミツキは那津の小指に目を向ける。そこには、ずっとミツキの結んだ糸があった。 「でも楽しかったんだ……本当だよ。病気でも、毎日笑ってたでしょう? 私」 「もう、死んでいるんだから、ここで俺の糸の効力はない。俺は、お前が現世で泣けないようにしてしまった。無能な神様なんだよ」  ミツキは、そう告白した。 「違うよ、ちゃんと、私は幸せだった。ミツキが私にくれた幸せだ」  ミツキは首を横に振る。 「俺が、お前の悲しみの感情を消して、人として大切な心を歪めた。だから、お前は、いま泣いているんだろう」  那津はそれを否定できない。この抑えられない涙の理由が、寂しさなのだとしたら、それは現世で感じたことがないモノだった。  確かに身の内にあったけれど、決して表には出てこなかった。 「那津……ごめん、本当に……悪かった」 「なんで、謝るの?」  今は目の前にミツキがいる。寂しい気持ちなど心にあるはずがない。それなのに、いまミツキがそばにいるのに心が寂しいと必死に叫んでいる。  もっとミツキの近くへ行けば寂しくなくなる気がした。  那津の心は最初から決まっていた。ずっとミツキのそばにいたい。それだけがここにいる本当の理由だった。 「……ねぇ、謝るなら、そばにいさせてよ。ずっと、会いたかったんだよ。泣かないで頑張ったんだよ、私」 「あぁ、知ってる、ごめん。俺がそうさせたんだ。お前を糸で操った」  誰ともしたことがないその行為が正しいかなんて那津には分からない。那津は自分の抑えられない感情のままに、ミツキに縋り付いていた。  ただ、もっと近くにいたいという一心で。  那津は、拙い動作でミツキの唇に自分の唇を重ねていた。何も知らなくても、体がミツキのことを求めていた。その感情は抑えられない。  身体中で暴れ狂う熱の理由も、その正体も那津は知らないから。 「私の好き、は、こういう好き、だよ。ミツキ、もっと……もっと近くにきて」 「那津……駄目だ。お前のその感情はただの亡者の寂しさだ、生まれ変われば消える。それにお前が食べた仙桃がそうさせているだけだ、一時の感情なんだ」 「違う。ほら、ミツキ、みて。私の涙止まったでしょう、こうしたら、私、寂しくなくなるんだよ」  那津はミツキをその場に押し倒し、首筋へと唇を寄せる。死んでからやっとミツキと同じように時を刻むことを許された鼓動に熱に翻弄される。  近くにいることが嬉しいのにその感情は許されるものではない。 「那津、頼むから聞き分けてくれ」  那津の体の下で苦しげに声を押し出すミツキの声に悲しい気持ちになる。どうして、同じように願ってくれないのだろう。たった一つの我儘が許されないのだろう。 「そばにいたい。ミツキ……好き、ずっと、会いたかった」 「……知ってるから、駄目なんだ」 「駄目とか……言わないでよ。私、涙、とまんなくなる」  自分でもずるいと分かっている。こう言えば、ミツキが自分の気持ちを許してくれる気がした。今だけでもいいからと、体が仮初めの欲でも欲しいと願う。これが自分が食べた仙桃のせいでもいいから、ミツキと今だけでも繋がりたい。  自分でも抑えられない、本当の気持ちだった。偽りなんかではない。生々しい心。 「もう、俺との約束なんて、守らなくていいよ、お前が泣きたければ、好きなだけ泣いていい、泣いていいんだ、那津」 「好き、ミツキ……好き、だから」 「那津……」  ミツキに正しく自分の気持ちは伝わっているだろうか。  やっと伝えられた本心はミツキが返してくれた口付けにかき消されていく。    互いの熱を、舌を熱心に擦り合わせる行為に、何の意味があるのか那津には分からなかった。未成熟な体は、内から湧き上がるこの気持ちをどう処理すればいいのか理解できない。仙桃のせいで湧き上がるのは、人間のドロドロとしている欲の塊だった。  ミツキの一番近くで抱きしめられて口付けられると、果てない幸せを感じる。砂糖菓子を熱でじわじわと溶かされているような心持ちは、口付けをすれば消えるどころか、もっと欲しくなる。その欲求は底が見えない。  「那津……苦しいか?」  那津は首を横に振った。嫌だといえば、ミツキはその場から離れてしまうと思ったからだ。ミツキが遠くにいかないように熱に翻弄されながらも必死でしがみ付いていた。 「わかったから、どこにも、いかないから」 「……うん」  ボロボロのい草の畳敷きの居間で二人で座り抱き合っていた。那津はミツキに肩を押され仰向けに畳の上へと組み敷かれる。 「っ……み、つき、ぁ、熱い、体が」 「あぁ、ごめんな、那津は、何も知らないのに、こんなこと、死んでからだって知らなくていいのに」  ミツキはそう謝ると、那津の熱の中心を着物の中から取り出しゆっくりと手でこする。そうされると、幼いままだった性器は芯を持って硬くなっていく。  そんなところをミツキに触られて恥ずかしいのに、ミツキの大きな手で優しく熱を育てられると、口からはしたなく唾液をこぼしてその心地良さに身を任せてしまう。  ミツキが、自分が食べた桃は亡者には毒だといった。  確かに毒だった。  悲しいも、寂しいも、嬉しいも、気持ちいいも、隠したい気持ち全てを自分の意思に反して外に感情を出してさらけだしてしまう。抑えられない気持ちに那津はただただ翻弄されるだけだった。 「ぁ、ミツ、キ、んんっ、ぁああ」  ミツキに下腹部を擦られる度に那津の熱芯は涙のような透明な雫をこぼす。 「痛くないか?」  ミツキの言葉にこくこく頷く那津は、身体中から湧き上がる欲求に逆らうことができなかった。自分の秘部をミツキに真上から見られていることの羞恥にこんなに震えているのに、はしたなく溢れる欲蜜を止めることはできない。  それどころか、自ら腰を動かし、もっと欲しいと体が浅ましくミツキを求めている。 「ぅ、あぁ、あ、あっ、んんっ」 「出したら、楽になるから、我慢してなくていい」  ミツキも同じように自分の物を取り出すと、那津の熱を自分の熱を束ねて一緒に擦り始める。同じように、熱をもったミツキの性器。互いにはしたなく蜜をこぼす中心を見ていると、那津は、ぐしゃりと頭の中心を潰されたような感覚がした。  自分が自分じゃなくなっていく。相手と混ざって一つになる。 (……さみしい、あつい、きもちいい、かなしい、うれしい、ぐちゃぐちゃになる、ぐちゃぐちゃになりたい、とける、とけたい)  あの日、那津は、一人現世に残された。  同じ場所に連れていってもらえなくて、いつか、同じになれると信じて、つらくても、それを心の支えに、ここまできた。  ぼろぼろと涙が溢れてくる。泣いていいとミツキに言われて、自然と感情が内から溢れる。 「那津……綺麗だな」 「っ、ぁ……私、泣いてるよ? 泣いてるのに」 「泣いてるから、だ。那津の泣き顔、見たことなかったから」  ミツキに頬に伝う涙を舐められる。  もう動いていないはずの心臓が、ドクドクと確かに熱を持って動いている錯覚。耳朶をミツキに舌で舐められながら、施されると、身体中が自分の意思に反してびくびくと震えた。 「ぁ、あっ、ぁあっ」  何度も熱を擦られていると、次第に頭の中心がチカチカと火花を散らし始める。このまま追い詰め続けられると壊れてしまいそうだった。  むずがるように無意識に体が動く。そんな那津を見てミツキは手を止めた。 「ぁ……や、めないで、ミツキ」 「けど」 「私、体がびっくりして、どうしたら、いいか、わからなくて……気持ちよくて」 「……なら、気持ち良かったら、いく、って言え、大丈夫だから」  何だか、困ったような顔をしたミツキは、そっと那津に口付ける。 「うん、ぁ、いく、いきたい、ぁっっ」  もう、ミツキは手を止めるつもりはないのか、那津が体をよじっても、逃がしてくれなかった。溢れ出した蜜でどろどろになった性器は次第に解放に向かう。ミツキの手が、硬くなった先っぽの敏感なところをかすめた時だった。ひときわ強く体が震えた。 「あっ、あああっ!」  頭の中が真っ白になる。  遠くにいく。本当にミツキの言葉の通りにどこかに行くんだと那津は思った。  溢れた二人の白濁が、那津の腹部を汚す。  やっと、ミツキと同じになれたのだと思った。次第に遠のく意識の中、那津は何とかミツキの着物を掴もうとした。けれど、その手はもう少しのところで届かなかった。 (どこにも、いかないで)
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