111人が本棚に入れています
本棚に追加
3
頭の上に沢山の疑問符が浮かんだ。考えもしなかったが、あのまま阿古田たちについていけば、そういう男同士のアレコレが待ち受けていたらしい。にわかには信じられなかった。
「えぇ。あなたは、別に男性同士のセックスがしたくて、ゲイバーへ来たわけじゃないのでしょう?」
「は、はい! そんなつもりは、もちろんないです、全然!」
「やっぱり思った通りだ。けど、秦野さんが自分が「猫」だなんて言うから、私も、多分マスターも判断に迷ったんですよ、あそこで何も答えなければノンケのお客が間違えて入ったと分かったのに」
「それは、あの、猫が好きで……俺」
「それは動物の?」
動物以外に何があるのだろうか? と首を傾げるとまたくすりと微笑む。店の中では睨まれていると思っていたが、俺のことを心配していたらしい。ちゃんと見れば御堂さんの瞳は優しげだった。
「ねこ、男性同士のセックスで受け入れる側のことですね」
「あぁ、そういう……こと、デスカ。わか、りました」
丁寧に説明されて思わず顔が赤くなってしまった。
「本当に何も知らなかったのですね」
「あの、助けてくれて有難うございます。すみません、折角お酒楽しんでいたのに、邪魔してしまって、俺は大丈夫なんで、お店戻っていただいて」
御堂さんは何も知らずにゲイバーに入った俺を助ける為に一緒に外へ出て来てくれたのだ。
(いい人だぁ……)
本当に何から何まで抜けている自分。目の前の完璧人間との差にさらに落ち込みそうになった。
「構いませんよ、静かに飲みたかったのですが、今日は賑やかな先客がいたので、もう出るつもりでした」
「そうですか、あ、そうだ! さっきのお金返します」
「いいえ、気にしないで、私のお節介で連れ出したんですから、私の方が秦野さんのお邪魔をしたんです」
そうは言っても知り合いでもない人に奢られたままでいるのも落ち着かない。カバンの中から財布を探そうとした。が、自分の手にカバンがないと気付く。
「あ、俺、カバン……わすれ」
「おや、店ですね、私が急かしてしまったから」
「もう、俺。何やってるんだろう今日」
家の鍵を会社に忘れゲイバーに迷い込む。そして昔の彼女との苦い経験を思い出して自己嫌悪。
いつも、ちゃんとしようと決心した途端に失敗ばかりしている。
「ここで待っててください。取ってきますから」
「いいです、自分で」
「いいから、ね」
恥ずかしくてもう穴の中に入って消えてしまいたかった。けれど御堂さんはそんな俺を笑うことなく、再びビルの中に入っていった。
俺はビルの壁を背にしてその場に座り込んだ。
「雪……きれーだなぁ」
ここへ来るときには、ぱらぱらとふっていた粉雪は、大きい塊に変わりコートの上と自分の頭の上へ積もっていく。
まだ一晩過ごす場所も探せていない。このまま夜の街をふらついていたら風邪をひきそうだった。温かいお風呂に入って、こたつのある部屋で猫みたいにゆっくり眠りたかった。
しばらくすると自分のカバンを持って御堂さんが戻ってきた。
その場に座り込んでいた俺の前にしゃがみ、カバンを手渡す。
「気分……悪いですか?」
「落ち込んでるんです」
「え?」
「ちゃんとしなきゃって思うのに、だらしない性格で、こんなんだから、猫にも懐かれないんだ」
「ネ、コ?」
「えっと、俺、猫好きが集まっている会社で仕事してて。けど、なぜか俺だけ猫に嫌われてて」
「猫に嫌われているのですか?」
「はい」
猫に嫌われているくらいで落ち込むなんて、馬鹿らしいと言われるに違いない。
会社の人たちと同じように、御堂さんも俺を笑い飛ばすと思った。
けれど、御堂さんは笑いもせずに俺の話を真剣に聞いていた。
「それは、なんというか。お気の毒に。――好きな人が同じように自分を好きになってくれないのは辛いです。それは片思いですから」
「はい、俺、すごく好きなんです。ミケもトラもシャケも……」
「なるほど。あぁそうだ、秦野さん。そんなに猫が好きなら、これから、私の部屋に遊びに来ますか?」
「え?」
「部屋で一人飲みもつまらないですし、秦野さんさえよろしければ、確か家の鍵がなくて帰れないんでしたよね」
ゲイバーでは、今夜の相手を探すため「家に帰れない」と言ったわけではなかった。現実問題、家の鍵は会社のデスクの上で月曜日まで家には入れない。
「けど。そんな急に、他人が行っても」
「うちにいるのは気難しい猫ではないので、怒ったりしないと思います」
「御堂さん、猫飼っているんですか」
「はい、ただもう大人の猫なので、あまり遊んでくれないかもしれませんが」
「俺、今日、本当に泊まるところなくて、あの御堂さんのご迷惑でなければ」
御堂さんの提案は有り難かった。このまま、カラオケやインターネットカフェで朝まで過ごすよりは、体力的にも助かる。
「大丈夫ですよ。私と猫しか住んでいませんから、泊まっていただいても問題ありません」
「じゃあ、お言葉に甘えていいですか?」
俺が素直に提案を受け入れると、御堂さんは小さく笑った。
「あの、俺、変なこといいましたか?」
「いえ、全く。でも、あまり警戒されないのも逆に心配になります。さっき私がゲイバーから出てきたの分かってますよね?」
ついさっき俺は、ゲイバーで阿古田たちに連れて行かれそうになっていた。
御堂さんはそういう意味で俺に気をつけるべきだと言っている。
「そんなふうに油断していると、オオカミに食べられてしまいますよ、ってことです」
「あ……はい」
オオカミと言った御堂さんは、どちらかといえば実家にいる大型犬のサチコに似ていた。
俺の元気がないと寄り添って励ましてくれる。頼り甲斐がある優しい愛犬。
だから初対面だというのに、居心地の良さに甘えてしまうのかもしれない。
「御堂さんは、俺を助けてくれたので、悪い人じゃないと思って」
「警戒されないのはありがたいです。ゲイも人間ですから、やっぱり色眼鏡で見られたり、差別されると傷つくので」
昔の彼女に言われた言葉から完璧人間に劣等感を感じ、御堂さんとは絶対に友達にはなれないタイプだと思っていた。
そういう意味で、御堂さんを色眼鏡で見ていたことは確かだ。
実際は俺のことを助けてくれて、話を聞いてくれて世話を焼いてくれる。
きっと昔の彼女も御堂さんみたいな人が相手だったら付き合い続けてくれたはずだ。
もちろん俺は逆立ちしても御堂さんみたいな優しい気遣いは出来そうにない。
「御堂さんは、いい人ですよ」
「いいひと? そんなこと言われたの初めてです」
俺は御堂さんのマンションが自分と同じ生活圏内にあったことに驚いた。俺が住んでいるマンションとは川を挟んで反対側に彼の家はあった。
エレベーターで五階まで上がり、御堂さんの後ろをついて歩く。
(それにしても、御堂さんって、何している人だろう)
そもそも、さっき出会ったばかりでお互いのことは何も知らない状態だった。
(てか自分たち、どういう関係だ? 友達……にはまだなってない? 命の恩人? いや命は狙われてないしなぁ)
最初のコメントを投稿しよう!