京都逍遥

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平成26年9月25日(木) 曇り   昨日の暮れ時に驟雨が路面を叩いていた。今朝の曇り空には蒸し暑さを予感させる。ヴィアイン京都四条室町店をチェックアウトし、旅行鞄を地下鉄四条駅のコインロッカーに預け、新町通りを北に歩く。朝食前の散歩で見つけていた蛸薬師下がる百足屋町にある茶屋四朗次郎清延の屋敷跡に向かう。 『茶屋家は中島氏といい、中世の名門小笠原貞興の子孫といわれる。清延の父、明延は京都に住み足利将軍義輝が訪れて茶を喫したことから茶屋の屋号が生まれた。朱印船貿易・糸割符商人として活躍し、角倉・後藤家とともに京都三長者と称された』 当時は壮大な屋敷であったはずであるが、度々の火災に見舞われ今は少し大きめの町屋として高札が無ければ見過ごす所である。   六角通りを西に向かう。本能寺町・六角押小路町・越後突抜町などの町名掲示を写真に映している。かつてこの辺りには立ち寄ることも無かったが、町中の通りがこんなに狭いとは思いも掛けなかった。木戸門がそれぞれの町辻に設けられた江戸時代の光景とは、どの様なものであったのか。裏長屋が並ぶ光景とそこでの暮らしぶりとは。また、今は店らしい店も見当たらないが、貞享二年(1685年)刊行の京羽二重に書かれた、はな紙袋・まもり袋・づきし・木綿島や・絹布や・こしや・旅籠屋・表具屋・てうしや・染物や・絵や等の店がある光景とは、そこで立ち働く人々の姿とは。様々な光景を想像しながら歩いていた。堀川通りを越えると大宮六角になる。衛星テレビで放映された澤田ふじ子著の公事宿事件書留帳、これに書き出された公事宿鯉屋はこの辺りであり、また多くの公事宿が軒を連ねていたという。中世荘園の雑掌や口入人の後身として商いが始まった公事宿、江戸では旅籠稼業が濫觴となる。事件には刑事と民事があり、江戸時代には吟味物と出入物と呼ばれていた。今の世では弁護士事務所が旅館を兼業している様なもので、出入物を主に扱い訴訟の手続き・お白洲での擁護、それに遠方から上洛してくる者にはお裁きまでの間の宿を提供していた。主役となる田村菊太郎、東町奉行所同心組頭田村次右衛門を父に持つが諸腹の子故に正妻の子である義弟銕蔵に世襲の地位を譲り、諸国武者修行を経て京に戻る。父の手下であった武市(宗琳)が公事宿鯉屋を開業しており、その子源十郎の代になっていたが、そこに居候として居付くことになる。数々の難事件を解決に導き、町奉行から出仕を求められるも宮仕えは御免と断り続ける。こんな主役の設定が出来るのも、やはりプロ作家であり京の市井を徹底して調べ上げたものと思わざるを得ない。到底太刀打ち出来るものでないが、京都人として己のレベルで抒情を入れた小説が書ければと思っている。   取り留めもないことを考えながら、六角通りを更に西へと歩く。そこには三条新地牢屋敷、俗に六角牢と呼ばれた牢獄があったはずである。ところがこの通りの突き当りには武信稲荷神社があり、境内にあった榎の大木の解説には坂本竜馬とおりょうの話が書かれていた。勤皇家の医師であったおりょうの父が収獄され、この木に登って牢屋敷の中を窺ったという。ならばこの近くが六角牢の跡地であったはずと、往古には大木が林立していた景色を思い浮かべながら南へ下り、この地を一周していた。六角牢跡地と刻まれた石碑は見つけられず、元の場所に戻ると建物の際に平野国臣殉難の地の高札を見つけた。幕末、勤皇攘夷派の指導者で、この地の六角獄舎で処刑されたと記されている。そうなると、この辺り一帯が六角牢の跡地となる。 『元は小川通り御池上がる西側の地にあったが、宝永の大火で類焼し、この地で新たに建てられた。東西三十八間、南北二十九間、千二坪の敷地には、中央南に十九畳半の本牢・東に切支丹牢を中にして十八畳の牢が三室、西南に上り場や無請といった十四畳の牢が三室、西に十二畳の女牢、他には詮議所・拷問所・木馬などの施設が設けられていた。築地塀で仕切られ、その外周には竹矢来が囲んでいた。正門は北側にあり、四脚門が厳めしく構えられていた。京都所司代の命により月番の京都奉行が管掌していたが運営は奉行所の役人ではなく、京都独特の半官半民の自治組織である四座雑色の下に行われていた。牢屋番に下雑色一人、見座一人、中座八人が当り、竹矢来の東南と西南にある外番所には藍染屋と穢多が昼四人・夜六人詰めていた。ただ、藍染屋は代銀を支払い、穢多に頼み詰めさせていた。他には、牢賄として八人程がいた。(京都御役所向大概覚書より)』 収獄は取り調べと刑の執行までの期間であり、永牢者はほとんど居なかった。長い者で数か月から一・二年であろうが、どこの世界でも取り仕切る者が現れて来るようで、ここにおいてもどすの利いた者が牢名主などになっていたのであろう。 新たな咎人が牢に入れられた。太い木格子の扉が閉められると、牢内にガシャリと陰惨な音を響かせて鍵が掛けられる。咎人が恐る恐る辺りを見回している。薄闇の中、茫々と頭髪を伸ばし無精髭に覆われた男達の取り巻く姿が、朦朧とした目に映った。そんな男の一人から、突如として罵声の様な声が掛った。 「おい新入り、ちじこまっておらんで牢名主様にご挨拶せんかい」  恐らく並みの咎人なら卒倒してしまうだろう。こんな場景が、日常繰り広げられていたに違いない。   ここから北に向かう。少し日が射して来ると京都独特の地形より風が吹かない道路から、蒸し返すような暑さに見舞われている。陰湿な牢屋の場景を思い巡らしていただけに、この暑さは堪える。三条通りを越え御池通りに出ると、筋向いに喫茶店を見つけすぐさま入っている。冷房が効いた店内で空席に座ると、アイスコーヒーを注文し江戸時代の地図を広げた。店の人に北陸から来ましたと告げ、京都町奉行所の跡地を尋ねている。やはりここは京都であり、歴史に詳しい人が居ると客の一人を連れ出して来て、丁寧に教えて貰った。店を出ると教えて貰った場所を目指して北に行くと、目の前の景色を遮る様に二条城の石垣と白壁が連なっている。ここは押小路になり、右神泉苑の掲示を見つけた。これは見ておく必要があると思い、東に向かうと直ぐに入り口があった。 『延暦十三年(794年)平安京の造営に当り大内裏の南にあった沼沢地を開いた苑池で、常に清泉が湧き出すことから名付けられた。南北四町、東西二町の広大な境域があり、歴代天皇や貴族が舟遊・観花・賦詩・弓射・相撲等の行事や遊宴を行った。また、天長元年(824年)春の日旱に、この池畔で空海が善女龍王を祀って祈雨の法を修して霊験があったと伝えられている』 空海と聞けば、四国八十八箇所の札所を巡り、五十日を掛けて1200kmを歩き通したことを思い出す。その遍路道の各所に空海の霊験あらたかな場所があり、太龍寺の舎心ケ岳・室戸岬の御蔵洞・足摺岬の金剛福寺・大洲の十夜ケ橋・横峰寺の星ノ森・出釈迦寺の捨身ケ嶽等が直ぐに胸裡に浮かぶ。往事神泉苑は、南北には二条大路から三条大路までを占めていたことを思うと、恐らくは十分の一以下に狭められ、埋め立てられている。それでも神泉が今も滾々と湧き出している池の周りを巡り、ここを後にした。   二条城の西南、道路を挟んで南側にNTT西日本のビルがあり、敷地の柵内に東町奉行所跡の石碑がひっそりと立っていた。西町奉行所跡の石碑も、JR二条駅交差点北の千本通り東側歩道に申し訳なさそうに立っている。ここが、かつては洛中を始めとして丹波・山城・近江を管轄していた東西の町奉行所跡かと、変転の激しさに戸惑いを感じている。東西それぞれの奉行所に与力二十人・同心五十人を配し、月番で治安を守っていた。世は戦国の争乱期を脱し、表立っては太平の巷にあった。初めは徳川家旗本として京都に乗り込んだ与力・同心も、二代、三代と重ねていくと、やがては京都の町に染まって来る。京都は三代続いてこそ京都人と認められる様であるが、町奉行所の役職は基本的には世襲であり、町衆からも京の人との認識が生まれたことであろう。しかし、町衆から見ると、やはり御上の人、公儀であって、その挙措の一つ一つに気配りを欠かさなかったと思える。牢獄や奉行所は、小説に欠かせない存在であり、その風景や人物像を更に検証していかねばならない。   千本通りを北に行く。丸太町通りを越えて、千本丸太町のバス停を左に入ると、平安京大内裏の大極殿遺跡となる。近年の発掘調査では、千本丸太町交差点の直ぐ北側が正確な位置である。 『平安京の最重要施設である朝堂院の正殿となり、延暦十四年(795年)に完成し天皇の即位式・正月の朝賀や御齋会・外国使節の謁見等、国家の重要な行事が行われた。創建当初は、東西十一間・南北四間の寄棟造りと見られ、基壇の大きさは推定で東西五十九米・南北二十四米で、朱塗りの柱や組物・屋根の大棟両端には鴟尾を乗せ、軒先や棟には緑釉瓦で縁取りされた豪壮華麗な建物であった。幾度の火災に見舞われ、安元二年(1177年)に焼失後の再建はならなかった』 歴代天皇の威光は元より印象に残るのは藤原摂関家、特に異彩を放った藤原道長は天皇の外祖父として絶大な権力を持ち続けた。既に権勢並ぶ者は無く、「望月のかけたることもなし」と詠じた男。僅か九歳で即位された後一条天皇、その傍には内覧となった道長が寄り添い、炯々とした鋭い眼光で居並ぶ百官を睥睨している。大極殿遺跡と刻まれた石塔の前で、こんな光景を脳裏に描いていた。   更に千本通りを北へ歩くと、中立売通り・今出川通りを横切ることになる。この一帯は地図に名はのせられていないが西陣という。 『東は堀川を限り、西に北野七本松を限り、北は大徳寺今宮御旅所を限り、南は一条通り又は中立売通り、町数百六十八町(京都御役所向大概覚書)』 と境界が記され、「日本の近世 都中の時代 中央公論社」では、 『応仁・文明の乱で山名宗全率いる西軍が陣を構えたことに由来、平安時代以降宮廷用の衣服が生産され中世には絹工人の同業組合大舎人座が結成され機業地として発展したが、応仁・文明の乱で全壊し離散した。その後、豊臣氏の保護で復興し江戸幕府の保護のもと著しく発展を遂げた。元禄時代には機屋五千軒と伝えられている』 と述べられている。そこでは特権的な仲間によって使われていたのが、京機とも言われる高機である。空引という紋織・組織を織り出す仕組みを備え付け、織手の指示で経糸を引き上げる補助者がいた。空引とは、綜絖を通して経糸の一本一本につながっている通糸という糸を、鳥居と呼ばれた組木の上で引き上げる作業である。 森鴎外の高瀬舟で、病苦のため自害を試みた弟が死に切れなかった処で手を貸したとして、島送りになる喜助に語らせている。 『小さいときに二親を時疫で亡くし、弟と二人が軒下に生まれた犬の子に不憫を掛けるように町内の人たちがお恵みくださいますので、走り使いなどをして育ちました。しだいに大きくなりまして、弟といっしょに西陣の織り場で空引きということをいたすことになりました』 織手と異なり空引や糸繰り等は、日雇いであり手間賃も安くきつい仕事であった。華やかな西陣織は京都の一大産業になるが、この様な多くの下職に支えられていた。   西陣の北西、廬山寺通りが西に突き当たる千本通りに面して、俗に千本閻魔堂と呼ばれる引接寺がある。寛仁年間(1017~1021年)恵心僧都源信の弟弟子定覚により開山されたと伝えられる。この地は埋葬地となる蓮台野の入口にあって、死者を引接せりとの由来が寺名となっている。又、千本通りの名の由来は、この辺りに数えきれない多くの卒塔婆が立っていたことからとされ、後白河法皇編著となる『梁塵秘抄』に『根本中堂に参る道・・・(中略)・・・阿古也の聖が立てたりし千本のそとば』の一首がある。ここは裏盆の七月十六日(8月16日)に、今は焼失して無くなったが階上の舞台で演じられる六斎念仏がある。かつては、門前の通りに裸電球の明かりを煌々と灯した夜店が並び境内にも茅の芯を玉にする鉄砲や飴菓子、パチンコにスマートボール等の店が出ていた。舞台が終えると間もなく、東山の如意が嶽に夜空を焦がす様に赤々と燃える大の字が浮かび上がり、妙法・舟形・左大文字・鳥居形と次々に燃え立って行く。誠に優艶な古都の風情を感じさせる光景であり、夜も更けると千本通りには六斎念仏の町流しがあった。 拙書「鬼の風聞」の冒頭、阿古也と五月との出会いは、この辺りである。
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