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平成26年9月24日(水) 曇り
観音霊場⇒第十八番 頂法寺(六角堂)、第十五番 観音寺(今熊野観音)、第十七番 六波羅密寺、第十六番 清水寺
墓参のため年に一・二度は京都を訪れているが、市中にはほとんど立ち回りもせずに帰っている。鄙の地に身を置いても京都人としての矜持は持ち続けており、京都を舞台とした小説の起草を試みようとしている折、何かの機縁を求めていた。その様な時、褒章受章記念パーティーへの招待は、誠に感悦なことであった。多分に躊躇いもあったが同窓生との新たな邂逅、それに西国観音巡礼と市内逍遥への期待に抗しきれず京都へ赴くことにした。
室町通りの四条を少し上がった所にあるBHヴィアイン京都四条室町店で朝を迎える。いまだ昨日にあった褒章受章記念パーティーと祇園のスナックでの二次会の余韻が残っている。子供の頃には、ただ見上げるばかりであった高級ホテル(ウエスティン都ホテル京都)に入ったこと。懐かしい同窓生との邂逅があったこと。出席者の多彩さや舞妓芸子の舞や音曲に驚かされたこと。二次会での会話やカラオケで盛り上がったこと等々。それにしてもこのような勲章を受章する同窓生の、ここまでの仕事ぶりには敬意を表したい。その過程では様々な苦労があったはずであり、その一つ一つを乗り越えて来たからこその栄誉と思わざるを得ない。
ただ江戸時代京都を舞台として小説を書こうとしている今の私にとっては、それぞれの会場で、その地に潜む江戸時代中葉の面影が座席の下より迫り来るようであった。ウエスティン都ホテル京都は粟田口と呼ばれた場所に立ち、その下には三条大橋を起点とする東海道があり多くの旅人や荷駄の往来で賑わっていた。また刑場もこの近くにあり、数多の咎人が命を失っている。祇園新地となる二次会のスナックは、当時鬱蒼とした林や竹林を切り開いた所に点綴する茶屋があり、森閑とした夜の帳の中で提灯やぼんぼりの明かりが朧に浮かぶ風景が広がっていたはずである。江戸幕府支配の時世に人々がいかなる思いを持ち、どのような暮らしをしていたのか。出来うればこの時代に舞い戻りたい気もするが、儘にならないことでもあり、抒情を文書に綴っていければと考えている。
朝の室町通りは、通勤者の行き来が絶えない。江戸期には多くの豪商が軒を並べ、殷賑を極めた町筋でもある。また四条室町は、京都奉行所の差配により町組織と共に京都の治安を守った四座雑色と呼ばれる組織の方内(管轄区域)の区切りであった。北西に五十嵐家・北東に荻野家・南西に松村家・南東に松尾家の四家が上雑色としてあり、それぞれに下雑色が二家置かれていた。その下には見座・中座が従属し、ここに穢多や青屋・悲田院という組織が付属していた。東西の奉行所にそれぞれ配された与力二十人・同心五十人では、洛中を始めとして丹波、山城、近江を管轄するには到底治安は守れない。これら奉行所が差配する組織があったればこそ、機能が維持出来たと考えざるを得ない。
このようなことを思い浮かべながら烏丸通りに出て、六角通りを東に入ると直ぐに頂法寺の山門の前に出る。寺伝では開基が聖徳太子と伝えられ、四天王寺建立の用材を求めてこの地に来られた時、霊告により守護仏の観音像を御堂に安置された。往古、愛宕郡となるこの辺りには現生の森が鬱蒼と広がっていたことと思われ、ビルが並び立つ今の景色からは想像することも出来ない。西国第十八番札所となる寺の山門を潜ると、そこは霊気に満たされた浄域であり、折々に詣でる人の真摯な礼拝の姿が見られる。古より町衆の信仰を集めた観音の、昔日の様子を想起させる光景に思えた。六角の屋根を持つ本堂で久方振りの般若心経を唱え、納経を済ませて周囲を見上げると、囲繞するように林立するビルに気付いた。やはりここは都会となった京都の街中に取り込まれた寺であり、都の中心となる「へそ石」をもっている。境内から繋がるビルの一つに入った。ここは華道家元である池坊の会館であり、本尊への供花が華道の始まりとされる。そのためか中世以来、代々の家元がこの寺の住職を兼ねている。ただ、華道への興味は浅くエレベーターで最上階まで上がり、六角堂を写真に収めてここを後にした。
混み合う地下鉄の四条駅より南に下り九条駅で降車すると、ここよりタクシーで観音寺(今熊野観音)に向かう。車は東大路九条より東山の山中に向けて坂道を上り、泉涌寺の寺内を走っている。深々と樹木が生い茂る森の中の道を通り、観音寺の直ぐ下で止まった。弘法大師空海がこの地を訪れた時、紀州熊野権現と名乗る老人と出会い一寸八分の観音像を託された。そこで大師自らが一尺八寸の十一面観音像を彫り、これを体内に納めて奉納したのが、この寺の興りとされている。他に参拝者の見られない静寂な境内には、大師が祈りにより湧き出させた五智水がある。大師の水といえば直ぐに思い出すのが四国遍路の最難関、第十二番焼山寺への登りにある柳水庵の柳の水。ここほどの水量はないが、この霊泉の水で喉を潤していた。本堂で参拝と納経を済ませ、右手にある大師堂の脇を見るとぼけ封じ観音像が祀られている。やはり弘法大師のご利益の一つなのか、早速にこの観音像に頭を垂れ無事を祈念していた。
どんよりとした曇り空が、森の道を更に暗くしている。谷に架かる赤橋を渡り、小高い峰筋の道に上がると悲田院と刻んだ石塔を見た。この横に続く道を進むと、何故か物寂しさを感じさせる山門が現れた。
『平安時代、京の都で孤者や病者を収容し給養するための寺院として、当初は三条北鴨川の涯に建てられた。その後、荒廃し病舎は部落に、寺は分離し京北の安居院の東北に移った。悲田院は正保二年(1645年)高槻城主永井直清の帰依により、この地に再興した。一方、部落は寛永年中、愛宕郡岡崎村に移り、俗には誤りて日傅寺と呼ばれた。村中には一堂があり、薬王寺と号し薬師如来が安置された。(京都坊目誌より)』
江戸幕府支配下で身分社会の最下級に置かれた人々、その桎梏より抜け出すことも儘ならなかった。その山門を潜り寂寞とした境内の本堂で手を合わせ、端にあった見晴らしのある休憩所のベンチに座った。眼下には、ビルが立ち並び慌ただしく営みをする現世の人々がいることを、彷彿とさせる京都市街が一望に見渡せる。しかし往事、この地で悲傷を抱え、火宅の世に悲憤しながら星霜を送った人々の歔欷の声が、蕭蕭と吹き渡る風の中に揺曳しているようであった。
享保十五年(1730年)戌十一月に、この様な触書がある。
『捨子いたし候事、御禁制之旨度々に触候。近年、捨子数多之有。其時々に吟味之所、捨子之様子衣類等迄も非人之躰之捨子と相聞へ候(京都町触集成より)』
身分社会の厳しい時代、その身分は子にまで及ぶ定めに、母としてこの子だけはと思う母性が先んじてもいたしかたがなかった。もし上手く事が運べば、何れかの町屋に貰い受けられ、捨子なれど町衆としての世過ぎが叶うかも知れない。
膝切の単に麻縄を腰に巻いた女が、身を隠す様にして三条大橋を西へ洛中へと渡っている。胸元には叺に包んだ幼子をしっかりと抱き、木戸番の目を避けるようにして街中へと入った。寺町筋にある地蔵尊を祀る祠堂の前に来ると、そっと叺を置きすやすやと眠る幼子の頬に手を触れている。すると直ぐに、振り返ることも無く急ぎ足で立ち去って行った。星明りを頼りにして小走りで三条大橋を東へ戻る女の頬には、滂沱する涙の筋が光っていた。
江戸期、捨子は遠島の刑に処せられた。にも拘らずこの様にして、捨子をせざるを得なかった悲しい母の姿が見られたことであろう。
現世では、言うことを聞かなかったとして子に暴力を振るい食事も与えず、子育てが嫌になったとして子を捨て去り、邪魔になるから子を亡くす等々、前代未聞な事件が度重なっている。この様な事件では、子を思う母の考え方、母性というものが、自己的・自分本位なものに変化しているのも現実である。しかしながら本来、母性という子に掛ける情けというものは、己の命より重たかったはずである。
ここより泉涌寺の寺域を回り込む様に北へ歩いている。この辺りは、かつて蓮台野・化野と合わせ京の埋葬地となっていた鳥辺野である。
とりべのや わしのたかねの すえならん けぶりを分けて いずる月かげ
西行法師が詠まれた光景はまったく失われ、今は山際まで住宅が櫛比する閑静な街並みが広がっている。途中に見かけた剣神社に参拝し、坂を下り東大路に出ると北に向かっている。やがて右手には天台三門跡として名高い妙法院が、石垣の上より威圧するかの様に見える築地塀を続かせている。重くなってきた足を引きずり東大路五条で左に曲がり、若宮八幡宮を過ぎた辺りで小路を北に上がる。幾筋かを越えると、何か瀟洒な趣を感じる六波羅密寺が迫って来た。ここは平安時代中葉に民草の中に生き、病者・弱者の救済に尽くした空也上人の開基となる。浄土宗を平易に、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけで浄土へ往生すると広められた。末法の苦況に満ちた世に、仏の慈悲をもたらす恰好の教えとして受け入れられたことであろう。
一度も 南無阿弥陀仏といふ人の 蓮(はちす)の上に のぼらぬはなし
それにしても、この華美な堂宇は何なのか。質朴な風情を予想していただけに、思いがけないものを見てしまった気がしている。朱の柱に白壁が美しい本堂で参拝し、左手に行くと庇の下には平清盛公の供養塔があった。梟雄と評され、平安末期藤原氏に代わり政権を掌握した男。思えばこの辺りは、当時平家一門の館が壮大に居並んでいた。にもかかわらず、諸行無常は世の常と、源氏の反抗により潰えてしまう。来世にあるこの男の胸裏には何が浮かんでいるのであろうか。一時代を築いた人物を偲び、煤けた石塔婆の前で手を合わせた。
六波羅密寺の北側に出ると六道の辻と刻まれた石塔が立っていた。現世と来世の境界とされ、埋葬地となる鳥辺野の入り口に当たる。
『六道といふところは、建仁寺の南にあり。むかし小野篁卿、冥途にかよひ給へる所なればとて、ここを冥途の道という(堀河之水より)』
ここから東へと歩くと、間もなく門前に六道の辻と自然石に刻む石塔を据えた六道珍皇寺があった。六道とは、仏教で全ての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の冥界のことである。恵心僧都源信が著した『往生要集』、これの厭離穢土の中で六道が語られている。その結語には、
『人間の生は死に裏づけられている。生あるものは、必ず死なねばならぬ。それは無常のすがたである。死は人々の欲しないものであるから、死に裏づけられているはずのものである生存は、苦しみであると言わねばならぬ。その真実のすがたは無常であり苦しみである。この厭わしいすがたから脱れるためには、ひとえに仏の教えに帰依すべきである(往生要集 中村元著 岩波書店より)』
と書かれている。更には、空観として
『夕に無常の道理を思ひ、空寂の観念を存し、娑婆の穢土を厭ひ、極楽浄土を欣びて、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無観世音菩薩と唱うべし』
の教えがある。朱に塗られた山門を潜ると、町屋の中にある寺としては境内に広がりがあった。直ぐ左手で目に留まったのは、水子地蔵尊と書かれた赤い提灯である。大きな地蔵菩薩像と脇に並ぶ多くの石地蔵の列。ここには子を亡くした、それとも亡くさざるを得なかった母親の悲嘆に暮れた姿があったことを偲ばせる。その悲嘆とはどの様なものであったのか、男の目からは想像だに出来ないが、この世に生を得るまでも無く失った命に僅かばかりの銭を賽銭箱に入れ冥福を祈っていた。本堂に進み脇にある小窓から中庭を覗いている。ここには平安時代初期、小野篁卿が夜毎冥界へと通った井戸がある。昼は高級官僚である参議として嵯峨天皇に仕え、夜は閻魔大王に仕えたと云う。遣唐副使に選ばれたがこれを拒み、隠岐国に流謫されもした人物が、どのようにして冥界を行き来する術を得たのか。野狂とも呼ばれ直情径行な資質と共に世に重んじられるほどの博識を持っていた。この様なことから言い伝えが始まるのかも知れない。小野妹子を祖先に持ち、孫には書家の三蹟として著名な小野道風がいる。また定かでないが小野小町も系譜にあるともされ、名族の一員でもある。
この寺を出ると何か冥界より彷徨い出た気分になり、蹌踉とした足取りで坂道を登っている。中々の急坂であり、人通りが多くなって来たと思えば清水寺の駐車場であった。喫煙場所がありベンチに座って一服していると、一般の観光客に混じり修学旅行生や外国人がやけに目に付く。土産物店が並ぶ参道で人込みの中を歩いていると、四年前の四月、西国一番札所那智青岸渡寺より自転車で11日を要して京都上醍醐寺まで走り、ダウンしたことが幸いに思えて来た。あの薄汚れた自転車と襤褸のごとき出立では、到底ここは気恥ずかしくて通れない。何が幸いするか知れたものでは無い。人の列が出来ていた清水寺の料金所でチケットを購入し、本堂に進むとここも人いきれで満ちていた。この中に西国観音霊場を巡る人が居るのか、はなはだ心もとない気持ちに滅入ってしまう。清水の舞台も人だかりが出来ており、江戸時代二十数人が飛び降りたことも忘れ去られている。(成就院日記より)中には西方の観音浄土を夢見て死を希求したのかも知れないが、この内十三人が亡くなった。早々に納経を済ませ、山腹を回り込む様に続く道へ向かった。ここからは清水寺の本堂が一望出来るが、舞台に蠢く人の波は、京都有数の観光地としての宿命なのかと思わざるを得ない。谷へと下り音羽の滝に出ると、ここも行列が出来ており写真に収めただけで素通りしている。往事、ここで修業をしていた行叡居士も、この地を譲られた延鎮も、更には寺院を建立した坂上田村麻呂も、現世の殷賑を見ると苦笑しているに違いない。
この様なことを胸裡に描きつつ、再び参道の人込みの中に身を紛らしている。途中で右に折れて三年坂・二年坂を下る。やがて、だれがいつ名付けたのか知れないが道標にねねの道と書かれた道に出た。所謂、太閤秀吉の正妻であり、北政所として権勢をふるったねねが隠棲した高台寺の前を通る道である。思えば秀吉は、数年の間で京都を大改造した男であった。城壁のごとき御土居で都を囲繞し、壮大な聚楽第を建造、方広寺には奈良東大寺に勝る大仏を造営した。また花見や茶会を盛大に催し、その威徳は今も語られている。日本史の中で比肩する人もいない程の栄達を遂げ、類稀な力量を知らしめる数多の史実を思い抱きながらこの道を通り過ぎた。
祇園八坂神社南門、ここがこの神社の正規の門である。四条通りの突き当りとなる西門が、市街を見渡す位置にあり正規の門と思っていたが、往古より京都の社殿は南に向かって建てるのが習わしである。南門の脇には中村楼と書いた提灯を吊り下げた料亭があった。かつては柏屋と名乗り、今は無くなったが向かいにあった藤屋と合わせ二軒茶屋と呼ばれていた。澤田ふじ子著の祇園社神灯事件簿、主役の植松頼助がこの柏屋の娘と恋仲になる。祇園社の灯籠の灯を守り、町中の悪行をも粛正する神灯目付役と言う役職が、実際にあったか否かは定かで無い。だが京都の産土神として、疫病退散の祈願をする祇園祭の執行や蘇民将来の護符など、京都の町衆から絶大な信仰を集める神社であることを考えると、このような役職があっても不可思議には思えない。こんな小説を思い浮かべながら鳥居を抜け、久方振りとなる八坂神社本殿で参拝を済ませた。かつては真葛原と呼ばれた円山公園、春には華麗な花を咲かすはずの枝垂桜も、枝を垂れた姿がこの曇り空と人気の少なさで精気を失ったかの様に感じられる。祇園社神灯事件簿で取り上げられた真葛原の決闘、念阿弥慈恩に発し上州真庭の樋口家に伝わった真庭念流の使い手である植松頼助が壮絶な剣を振るったのはどの辺りなのか。小説の虚構とはいえ、言い知れない映像が蘇ってくる。この様な主人公を私も書き出してみたいものである。
この公園の境が知恩院への入り口になる。山門へと回り道路より見上げると、重厚なまでに輪奐とした佇まいを見せ、二層となった大屋根の庇には霊元法皇(江戸時代前期第112代天皇)宸筆となる華頂山の扁額が掲げられている。ただ残念なことに山門より続く急峻な石段は工事中で遮断され、本堂も改修中で無粋な覆いが掛けられていた。しかしながら浄土宗総本山としての品格は、ここかしこに窺い知ることが出来、覆いに隠された本堂の英姿を休憩所で思い描いていた。
『知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない珍らしい罪人が高瀬舟に乗せられた』
森鴎外が名作『高瀬舟』で描いた知恩院の桜、この景色がどの辺りなのかは分からない。だが、この様な情緒のある名文を思い浮かぶのは、やはり文豪の所以であろう。また、澤田ふじ子著足引き閻魔帳に登場する宗徳が住職となる地蔵寺でも本山がここであり、度々書き出されるこの寺の描写を思い出していた。その一つに山門前の茶店があるが、今は広々とした駐車場になっている。ここまで歩きとおして来た足に疲れも溜まり、駐車場の片隅にあった喫煙場で一服し、観光バスから降りて来た外国人の列を空々として眺めていた。
いよいよここからは小説の取材を兼ねた街中の逍遥となる。東大路を渡り祇園新地へ向かっている。東大路から花見小路までに、元吉町・末吉町・清水町・富永町・橋本町・林下町の町内がある。
『ここは内六町新家と称し、元は知恩院の領地で田園であった所を正徳三年(1713年)京都所司代松平信庸の許可を得て町地と為し、延享二年(1745年)以来青樓妓館が櫛比した。(京都坊目誌より)』
そして、末吉町から富永町へ南北に通じる小道を暗町(くらがりまち)と言う。澤田ふじ子氏の小説に、よく出て来る茶屋街であり藪や竹林、樹木に囲まれた風景が描かれている。夜にはさぞやネオンが煌めく通りになるのであろうが、今は平日の午後、人通りも少なく閑散とした雰囲気が漂っていた。昨日に二次会をしたスナックが入るビルもひっそりと静まっていた。
花見小路を越えると白川に架かる新橋がある。西に向かって二股に分かれた道(新橋通り・白川南通り)の角には辰巳大明神と朱書きされた石塔が目に留まった。狸を祀った神社とのことであるが、舞妓芸子の芸の上達を祈念する信仰がある。通りには古風な趣のある茶屋が並び、舞妓の艶やかに歩く姿が見受けられる。この辺りは縄手通りまでの間で、
『辮財天町・常盤町・二十一軒町・中之町・川端町・之に宮川筋一丁目を加えて外六町と称す。内六町より早く寛文六年(1666年)京都所司代板倉内膳正重和が民請を容れ市坊を開く。初めは道極めて狭少なるに拘はらず、夏季には官に請ふて高床を設け、青樓の納涼場と為した(京都坊目誌より)』と、記されている。
鴨河原の納涼は、
『六月七日より十八日まで也。河原おもてを見わたせば、北は三条の橋を境ひ南は五条にをよぶまで、流れに床をならべて數千の水茶屋。家々の紋かきたる方燈かがやかしたるは紅の蓮の水の面に開きたるに似たり。(中略)既に子の尅(午後11時から午前1時)もうつり行けば、市町を守る役所の拍子木の聲、北にひびき南に流るる時、遊人は床をわかれをのがさまゆきあがれぬ。只建仁精舎の暁の鐘、ひとり梢に聲さびし(堀河之水より)』
と書き残されており、夜半を過ぎてまで楽しむ京都町衆の最大の憩いの場であった様子が窺える。
『遊所の起源は、慶長の末元和(1615年)の頃より、祇園社参詣人・東山遊覧の士の為に水茶屋を営み、茶汲女・茶立女・酌取女などと唱え暗に遊女體の所業を為す。寛文六年(1666年)外六町に茶屋渡世を許可、享保十七年(1732年)内六町にも許可が出された。然れとも女は一戸一人の制を厳守をしむ。宝暦(1751年)以後には制は弛むがごとく、天明八年(1788年)の大火で営業困難になった折、女一戸一人を残し隠し女は皆島原へ婢に差下せり。其の數實に千三百人の多きに及べり(京都坊目誌より)』
この様な女性の一人一人の生い立ちや茶屋奉公の因由、見過ぎ世過ぎが、どの様なものであったのか。飢餓・年貢の滞納・借金・病の治療等々、様々な訳を持って金繰りの為、女衒に連れられここへ来た。この苦界の中で我が身を晒し、抜け出すことも出来ずに冥途へと送られる。その様な女性の姿を思い描くと、ここには哀愁が鬼哭となって啾々と聞こえていたはずである。今、また二人の舞妓が少し離れた所の置屋から出て向こうの方に歩いている。遠目に判然としないが島田髷に下がりが煌めく簪を揺らし、白粉を塗った首筋が西陣織であろう振袖の背の色に比して際立って見える。見ていると、近くにいた観光客が二人にカメラを向けている。かつてのことが忘れ去られたかの様に、穏やかな今の場景が繰り広げられる。万物流転、万物の流動変化・変転の激しさに茫然とし、辰橋や大和橋より潺々と流れる白川の水を眺めていた。
四条大橋東詰に出る。ここには川端通りを挟んで西に出雲阿国の銅像、東に北座跡の石碑が建てられている。
『永禄年中(1560年代)江州の浪人名古屋三左衛門といふもの出雲のお国といふ風流女とかたらひ歌舞伎と名づけて男女立合の狂言を仕組み北野の森祇園の南林あるひは五条河原橋南にて興業しけるに秀吉公伏見城より上洛し給ふ時見物群衆し妨げに及ぶ故に四条の河原にうつす。其後中絶ありし所に承応二年(1653年)に村山又兵衛といふもの四条河原中島にて再興し又縄手四条の北にうつし、遂に寛文年中に四条鴨川の東にて常芝居となる(都名所図会より)』
と、記されているように当時河原に住まい芸で身を立てていたことが窺い知れる。そして、元禄(17世紀末)の頃になると芝居小屋は七軒となり、18世紀初頭には
『四条北芝居は井筒屋助之丞、両替屋伝左衛門の所有、南側芝居は大和屋利兵衛、越後屋新四朗、伊勢屋嘉兵衛が所有(京都御役所向大概覚書より)』
と記録に残っているが、度々の大火もあり19世紀末には北と南に一軒ごとになってしまう。北の芝居小屋(北座)は明治二十七年の道路拡張の際に廃され、南の芝居小屋は南座として今に残る。ちなみにここは大和屋利兵衛の所有であった。
『慶長以来雑闤の地となる。是れ常設の劇場あるを以て也。然かも道路幅員僅かに三間に充たず(京都坊目誌より)』
と記されているように、芝居は盛況であった。江戸時代を通し広い河原の中で流れを跨ぐだけの仮橋であった四条の橋を渡り、嬉嬉として芝居見物に出掛ける町衆の姿を彷彿とさせる。そこからは古くよりあった三間に満たない(5.5mほど)狭い参詣道が、田園や木立の中を祇園社へと続いていたことであろう。
今は鉄筋が入りコンクリートで造られた四条大橋を渡ると、直ぐに京名所先斗町と書かれた高札板があった。
『寛文十年(1670年)護岸工事で石垣を築き町屋が出来て、ここを新河原町通りと言った。その後、三条一筋南から四条まで南北六百米、東西五十米に人家が建ち、俗に先斗町と呼ぶようになった。正徳二年(1712年)に茶屋、旅籠屋と茶立女を置くことを許され、爾来花柳の町として繁盛した』
同様のことが『京都坊目誌』にも書かれ、
『鴨川の西岸三条の南なり川邊には水樓の如く軒端をつらね坐にして洛東の風景を賞し酣歌の英客ここに郡す(都名所図会)』
とも記されている。石畳の小路を北に向かって歩いている。夜にはさぞかし賑やかになるであろう茶屋や料理屋、小物売り屋等が軒を並べている。江戸時代、ここには三味線や太鼓の音が喧しく響き渡り、幇間や遣手婆の呼び込みの声が嘈々と纏わり、格子よりは飄客を誘う女郎の脂粉の香りが漂っていたことであろう。また河縁に軒を連ねた座敷では、東山のたおやかな連嶺を眺め、或いは月の宴に遊ぶ酔客も多く参じたことと思われる。この様な場景には、御託を並べる客や放恣な世過ぎをする客、思いのままに散財をする客、いわゆる『売り家と唐様で書く三代目』と呼ばれる者であり、こんな人物を思い描けば小説の虚構には相応しい。河端の宴席、一度はこの様な席に坐し落暉に映える東山や鴨川の風情を眺め、酒を酌み交わしながら味わいたいものと、叶わぬ思いを持って小路を後にした。
三条大橋に至る。ここの西詰には高札場があった。江戸幕府が決めた法度や定書から諸庶に亘るまで、様々なことが京都所司代・京都奉行所・町代から高札に示達された。この中で京都東西の町奉行所では、京廻土居藪高札・平藪高札・高瀬川高札・捨馬高札・用水札・賀茂川筋札・切支丹札・忠孝札・毒薬札・伝馬札、更には獄門札等の目途に応じて各所に高札を建てていた。又、示達は高札以外に口触というやり方があり、町代や四座雑色の組織を通じて裏長屋や洛外の隅々まで伝わっていた。触書は『京都町触集成』に、江戸時代を通して出されたものが納められている。興味深いものには、「火札を張る者の取締り」・「迷子の紹介」・「時限外の木戸門通行者の取締り」・「諸式高値の折に定め値の順守」・「井戸の釣瓶縄切りの者の取締り」・「風立の間の火元用心」更には「幕府高官上洛時、高瀬川舟入に屎尿樽放置の禁止」等々、事細かく触れが出されている。又、「賭博禁止」の触れは度々出されており、幾度お法度と知らしめても、治めることが出来なかったようである。人の因業の深さは、何時の世にも計り知れないものと思える。
三条大橋の直ぐ西側には、高瀬川に架かる小橋がある。角倉了以が慶長十六年(1611年)より私財を投じて開鑿したこの運河からは、運上金として数千石の領収があった。二条鴨川より河水を引き込み、鴨川に沿うように延々と流れて伏見で合流する。ここからは二十石から三十石の過書船で淀川を大坂まで航行した。高瀬川の西の川縁には、一之舟入となる二条に角倉屋敷があり、そこから南に長州・加賀・対馬・彦根・土佐と四条に至るまで、大名の京屋敷が豪壮に居並んでいた。ほとんどの町衆には無縁の領域として眺められていたことであろうが、身分社会の下、当代の天皇を当今様と親しみを込めて呼び、どちらかというと皇室贔屓の土地柄であることより苦々しい思いを持っていたとも思える。また東の川縁の道は、当初樵木町と呼ばれた木屋町である。木材・薪炭を販ぐ家軒が多く並んでいた。澤田ふじ子著、高瀬川女船歌に登場する宗因(奈倉宗十郎)の営む居酒屋がこの町筋に描かれており、瞑目すると船頭の舟歌や上がり船を引く人足の掛け声が聞こえて来る様であった。
三条通りの北側を東に行くと、池田屋騒動跡と刻まれた石碑があった。この辺りは、東海道の起点として多くの旅籠屋が集まっていた。その一つに池田屋があり、幕末の騒乱期討幕派の浪士二十数人が、洛中で騒動を起こそうと寄り合っていた所に新選組が切り込んだ。近藤勇・土方歳三・沖田総司等、天然理心流剣客の猛勇伝として今に伝わり、凄絶な血飛沫が飛び散ったこの地も、現世では海鮮茶屋の看板が掲げられていた。元治元年(1864年)六月五日(7月15日)午後十時頃、祇園祭宵々山となる京都の夜の巷には優艶な祇園囃子の音色が、流麗と流れていたことであろう。大きな変革期の渦中にあった町衆は、どの様な思いでこの騒擾を見たのであろうか。この一月後の七月十八日、二万八千戸の町屋を消失させた蛤御門の変が起こり、元治元年(1864年)、慶応二年(1866年)には一次・二次の長州征伐が行われた。慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いが始まり、戊申戦争へと突入する。同年、四月十一日には江戸開城引渡しとなる。前年の慶応三年(1867年)一月九日践祚され、九月八日に即位し明治と改元されていた天皇は、江戸から改称した東京へ明治元年十月十三日(1868年11月26日)に到着された。池田屋騒動から、あれよと言う間に遷都にまで及んでしまった。当今様の遷座される鳳輦を見送る町衆の目にはいかに映ったのか。薩長の為し様に、怒りを覚えた人も少なくはなかったと思える。
河原町通りを越えて三条寺町に来た。寺町通りは平安時代京極大路と言い都の東端であった。豊臣秀吉が洛中の寺を移転させ集中させたことで寺町と呼ばれる様になり、江戸期通りの東側には寺院が連なっていた。ちなみに寺町通りの東を南北に並行する新京極通りは、明治五年に寺院の境内を官に上地し開通させた通りで、新しい京極として名付けられた。演劇・酒楼・茶亭・菓子店・理髪・風呂屋・服飾・玩具等、百般の雑貨商売が櫛比し、東京浅草・大阪千日を凌駕する評言も為された。寺町と新京極を小路で行き来しながら南へと下っている。誓願寺、錦天神を見るも、何ともこじんまりとした光景にしか映らなかった。
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