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彼の顔を見た瞬間、手の力がふっと抜けて、握っていたボールペンを落としてしまった。隣の席の麻紀が、「平原、どうしたの?イケメンすぎて固まってんの?」と軽い口調で話しかけてくる。
──ちょっと待って。あの子、まさか……。
「大丈夫?急ぎの案件は片付いたんでしょ?」
「うん……」
肩をバシバシと叩いてくる麻紀に生返事をしながら、わたしは数ヶ月前のある夜のことを思い返す。あれ以来行っていない大通のカフェ、一晩中止まなかった雪、愚痴だらけの大衆居酒屋のテーブル。──駅までの帰り道、すっかり据わった目でわたしの手を握ってきた男の子。
「平原ってば、ほんとにどうしたの?」
「……あの子、名前言ってた?」
「うん。二階堂くんだって。ちなみに新卒」
「下の名前は」
「うーん、なつき、って言ってたかな。たぶん」
その名前を聞いて、思わず「ひっ」と声を漏らしそうになった。──夏樹。間違いない。やっぱり彼は、あのカフェの店員だ。
美しい俯き顔を呆然と見つめていると、なんとばっちり目が合ってしまった。彼が一瞬、「マジかよ」というような表情を浮かべて、わざとらしいくらい勢いよく目を逸らす。
──ちょっと、なんなのよその態度。こっちこそ、マジかよ、なんだけど。ていうか、わたしの顔を覚えてるの?たった一晩、過ごしただけなのに。
数ヶ月前の寒い夜のことが、どんどん脳裏に蘇ってくる。それは今の今まで忘れていたくらいの、夢のようにおぼろげな記憶だったのだけど──。
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