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マグマは庭の中央にあった。直径五十センチくらいの円形で、赤い光を放ち、暗い庭を照らしている。マグマの表面には小さな気泡が生まれては消え、その度にグツグツと音を立てていた。
俺は目の前の状況が理解できず、何も言葉を発することができないまま、その場に立ち尽くしていた。今日の朝までは芝が一様に生え揃う自慢のきれいな庭だった。そう、日向ぼっこだってゴルフのパター練習だってできる素晴らしい庭だったのだ。それが今や得体の知れない謎の液体が大地より湧きだし、ジェラッシクワールドのようなおぞましい庭へと変貌を遂げてしまった。地殻変動か、幻想か、はたまた誰かのどっきりか。有り得ない事態に、俺の思考回路はすぐにショートし、今にも頭から煙が上がりそうだった。
こんなことが現実に起こりえるのか。もしかしたら夢だろうか。そうだ。これはきっと夢に違いない。常識的に考えて、庭にマグマができるわけはないのだから。頭に浮かんだ一つの希望に、ぱっと心が明るくなる。
「ちょっといいかな」
俺は後ろを振り向き、彼女に声をかける。
「どうしたの?」
マグマの光で照らされた彼女の顔がわずかに右に傾いた。
「俺の頬を叩いてくれないか」
俺の言葉に、彼女は数回まばたきをした後、「分かった」と大きくうなずいた。そして右手を大きく振り上げ、目にも止まらぬ速さで平手打ちを繰り出した。俺の左顔面にとてつもない衝撃が加わる。脳髄が大きく揺れ、意識が飛びそうになる。夢ではない。というよりも、危うく永遠の眠りにつくところだった。
俺はふらつく足取りでマグマの方へと向きなおす。なぜこんな場所にマグマが。この一帯は火山があるわけでも、温泉が湧き出ているわけでもないのに、というより近くに火山があってもこんなことは起こるものではないだろう。そもそも、これはマグマなのだろうか。マグマと言われればマグマに思えるが、実際マグマなんて見たことがないから分からない。
「これって本当にマグマなのかな」
俺の言葉に彼女はまた眉を吊り上げる。
「マグマじゃなかったら何なの」
「何だろう。でもマグマが急にできるなんてあり得ないよね。もしかしたら、あれじゃない。最近流行りの、ほら、プロジェクションマッピング」
「どこに機材があるの」
俺は庭を見渡してみる。そのような機材は一切見当たらない。
「もう一発いっとく?」
そう言って彼女は平手打ちの素振りを始めた。なぜか嬉しそうな表情にぞっとする。
「いや、もう十分だから」
気が抜けている今の俺にあんなものを食らわされたら、魂まで抜けてしまうだろう。
俺はもう一度マグマ、だと思われるものに目を向ける。ぐつぐつと音をたてる血みどろのような色のそれは、映像なんかではなく、まさにリアルそのものだ。空気を伝わってくる熱気が、悲しくも、冷えた体を暖めてくれる。
どうやらマグマと認めるしかないようだ。3D映像ではないかという一縷の希望さえ潰されたのだから、彼女の主張に屈するしかない。
それで問題はこれでいいのか、ということだ。確か俺の記憶ではマグマは危険なものであり、民家や町全体を飲み込み、たくさんの人の命を奪うこともあるはずだ。そんなハイリスク・ゼロリターンな物体が我が家の庭にあるのは極めて深刻な問題だ。
「マグマであることは認めよう。じゃあ、これからどうしようか」
俺の言葉に彼女はきょとんとした顔を見せる。
「さすがにこのまま放置というわけにはいかないだろう。警察に知らせる方がいいか、消防に知らせる方がいいか」
「そんなことより、いつやってくれるの」
俺の言葉をさえぎるように彼女が言った。
「え、やるって、何が?」
「さっき約束したじゃん。マグマがあったら、裸で逆立ちしてくれるって」
俺は言葉を失った。そういえばそんな約束を数世紀くらい前にした記憶がある。そんなはるか昔の冗談を覚えているなんて、彼女の記憶力にほれぼれする。
背後で地獄の底のように沸き立つマグマを気にもせず、彼女は輝いた瞳をこちらに向ける。
そんな彼女に俺は言いたかった。今、それって大事かな?
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