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その時も俺は古本屋のレジの前に座り、店をぼんやりと眺めていた。今と違い、まだバイトの身分だった。誰もいない店内、ただただ時間が過ぎるのだけを待っていた。
そこへ一人の女性が店内に入ってきた。二年前の彼女だ。いらっしゃいませ、という俺の言葉を気にすることもなく、店内をぐるぐると歩き回った。やがて、ある一角で彼女が立ち止まった。そして手に取ったのは、ある分厚い図鑑だった。その表紙をじっと見つめていた。
何の本だろうかと気になり、さりげなく彼女の後ろを通り過ぎて、ちらりと本の表紙を見た。そこには大きく「タンポポ大図鑑」と書かれていた。
なぜ。
あまりのことに首を傾げずにはいられなかった。もうそれなりの年齢の若い女性が、なぜタンポポ大図鑑をそんなに気にしているのか。考えれば考えるほど、迷宮へといざなわれるのだった。その日、彼女は五分ほど図鑑を眺めただけで店を出た。
次の日も同じ時間に彼女はやってきた。また同じ図鑑を手に取り、じっと眺める。そしてしばらくして大きくため息をついてから、寂しそうな表情をして図鑑を本棚に戻し、店を出る。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も彼女は同じことを繰り返した。
もしかしたら彼女は学生でお金がなく、図鑑を買えないため、仕方なく表紙を眺めているのかもしれない。確かに数万円もする図鑑は、学生にとってはかなりの値段だ。
しかし、そんな彼女の姿を見るのは俺の楽しみにもなっていた。変わりばえのない古本屋のバイト、図鑑を見つめる彼女を見つめるのが、いつしか日課となっていた。
その日も彼女は同じ時間にやってきた。しかし、いつもと違い、うきうきした表情で、どこか足取りも軽かった。図鑑を手に取ると、まっすぐにレジへと向かってきた。
「これが欲しいです」
手に持った図鑑をこちらに差し出す。彼女の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。俺の心臓の音が大きくなる。そういえば何度も彼女の姿を見ているのに、面と向かうのは初めてだった。
しかし、同時にある考えが頭をよぎる。ここで図鑑を買ってしまえば、もう彼女の姿を見ることはできなくなってしまうのではないか。
「五万円になります」
そう言うと彼女はズボンのポケットから白色の財布を取り出した。
「はい、どうぞ」
財布の中のお札をこちらに差し出した。俺は枚数を確認してから、お札をレジへと仕舞った。
「ありがとうございました」
俺はそう言いながら、図鑑をビニール袋に入れて彼女に手渡した。彼女は目を輝かせて図鑑を受け取った。
「ありがとうございます」
彼女が満面の笑みを俺に見せた。そのはちきれんばかりの笑顔に、俺の心臓は爆発しそうになった。全身がたちまち燃えるように熱くなった。
彼女はすぐにくるりと振り返り、図鑑を胸で抱えたまま出口へ向かった。
「ちょっと待ってください」
思わずその言葉が口から出た。彼女は足を止め、顔だけこちらを向いた。
「僕も欲しいものがあるんです」
俺の言葉に、彼女の首がわずかに傾く。
「あなたが欲しいです」
言った瞬間、彼女の顔が固まる。その表情を見て、俺ははっとする。なんてことを言ってしまったんだ。後悔と興奮とで頭の中がこんがらがる。顔は湯気でも出そうなほど熱くなっていた。
彼女はぱちぱちと瞬きをした。そして、大きく息を吸ってから、口を開いた。
「五万ポンドになります」
彼女の冷静な口調に、俺は唖然とした。一ポンドって何円だっけ。そんな意味のない考えが頭をよぎった。
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