キャップ

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「ごめんなさい。このお店カード使えないみたいだから、立て替えといてもらえるかしら?」  そう言ったのは絢香ちゃんのお母さんだった。 「…では、私がまとめて払っておきますね」  私のお母さんがそう言ったとき、ほんの少し間があったことに気が付いているのは私だけだった。  バレーのレッスンの帰り、私とお母さんは歩いて帰ることになった。 「由紀子ちゃん。せっかくだから今日は歩いて帰りましょう」  お母さんは明るくそう言った。きっと、さっきお店の代金を立て替えたせいで帰りの電車賃がなくなったのだと思った。でも私は何も言わないでいた。  私とお母さんは無言で黙々と歩いた。10月初旬の夜はまだまだ夏の熱さが残っていて、ビニールの鞄を背負った背中にじわっと汗をかいた。一時間以上歩いてもまだ家には着かなかった。たまにちらっとお母さんの表情を見るけど、まっすぐ前を見ていつもの変わらない優しい顔をして歩くお母さんが今どんなことを考えているのかはわからなかった。  私は、歩きながらバレー教室を辞める理由を探していた。バレーは楽しいけど、お母さんにこれ以上負担を掛けたくはなかった。私がバレー教室に通うようになってから、お母さんは他の子のお母さん達に合わせて綺麗な服を買うようになった。それから、仕事を増やしたみたいで、毎朝、私が起きた時には朝ごはんを用意して仕事に出ているようになった。私の前で疲れた表情をすることはないけど、こんな生活を続けていて体を壊したりしないのか心配になる。  そんなことを考えながら歩いていると更に30分くらいが過ぎた。まだ家には着かない。俯いて歩いていると、お母さんが私に向かって何か言った。私はぼーっとしていて最初何を言ってるのか聞き取れなかったため、何て言ったのかをお母さんに聞いた。  するとお母さんは「好きなことは、絶対に続けなさい」と言った。私が考えていたことがお母さんにはなんとなくわかったのかもしれないと思った。 「うん」と私は小さな声で言った。お母さんはじっと私の顔を見た。その後、また私たちは無言で歩いた。いつまで歩いても家には着かないような気がした。そのとき空に大きな流れ星が流れた。 「流れ星ね」とお母さんが言った。 「うん」 「今ね、大きな流れ星が流れたんだよ。見てなかったの?」とお母さんは言ってきた。 「見てたよ」と私は言った。 「こんなに大きな流れ星なんて珍しいね」 「うん」と私は疲れもあって無愛想に返事した。 「お母さんね、今、お願い事したの。由紀子が毎日楽しく健やかに生きていけますようにって」そう言ってお母さんは歩きながらしばらく空を眺めた。「由紀子ちゃんは、もしも何かひとつだけ願いが叶うんだったら、何をお願いしたい?」 「お金持ちになりたい」と私は言った。そう言った後、しまったと思った。 「そうなの」お母さんはそう言って力なく笑った。  やっと家に着いた時には夜の11時頃になっていた。お風呂に入って歯磨きをして布団に入ると気づいたら眠っていた。翌朝、目が覚めると、当然のようにお母さんは既に家を出発していた。目覚ましも掛けないでどうやって毎朝起きているんだろうと思った。  顔を洗って朝ごはんを食べようと食卓のテーブルの上を見ると、サランラップで覆われた朝ごはんの横に手紙が置いてあった。 ―由紀子へ  私がお父さんと別れてから由紀子にはいつも迷惑をかけています。本当に申し訳なく思っています。でも、由紀子には好きなことをして生きて欲しいから、やりたいことはなんでもやらせてあげたいと思っています。今の私にとって、バレーをしているあなたの姿を見ることが何よりの幸せです。また、発表会楽しみにしています。  あなたのことを大好きなお母さんより―  私は、どうしようもない気持ちになった。バレー教室を辞めるなんてとても言えないと思った。私がバレー教室を辞めたいと言ったらお母さんはきっと私がお金のことを気にして辞めたいと言っていると思うだろう。でも、もうお母さんの為というより、自分自身がこんな気持ちになるのが嫌だから、こんな思いをするくらいならバレーなんてやりたくないと思った。でも、どう言ったらお母さんがそれを納得してくれるのかがわからなかった。  その日は学校が休みだったので朝からずっとテレビを見て過ごした。外は天気が良かったけど、どこにも行きたくなかった。勉強もしたくなかった。だから、特に面白いというわけではなかったけど、私はずっとテレビを見続けた。ピカピカ光るうるさい画面からの情報を目と耳に流し続けていると、だんだんと頭の奥が鈍っていくような感覚になった。そして、私の人生はずっとこんな感じで過ぎていくのかなと思った。  昼過ぎに、独特のヘアースタイルをしたお婆さんがゲストを呼んで話をする番組が始まった。特に興味が沸くような番組ではなかったけど、チャンネルを変えることが面倒くさかったのでそのまま見続けた。毎回流れるお馴染みのテーマソングとともに今日のゲストが紹介された。今日のゲストは町村多恵という小説家だった。この番組のゲストにしてはとても若い人だなと思った。年齢はまだ16歳とのことだった。町村多恵さんは14歳で文学の賞を取ってプロ作家としてデビューしたらしい。町村多恵さんは、小説を書き始めた頃は特に賞を取ろうと思って書いていたわけではなく、ただの趣味として書いていたそうだ。だが、ある日、授業中に小説を書いていることが先生に見つかり、書いていた小説を先生に取り上げられてしまう。そして、その先生がその小説を読んだところ、とても面白い内容だということに気づき、文学賞に応募することを強く勧められたのだそうだ。そして、その応募した作品が文学賞を受賞してプロになったとのことだった。  私はふと、熱中して話を聞いていることに気づいた。芸能人以外で子供の内から大人の世界でプロとして活躍することができる世界があることが衝撃だった。  私はこれだと思った。私がプロの小説家になればお金を稼ぐことができるし、そのお金を家に入れればお母さんもきっと喜んでくれる。それに、小説家になれなかったとしても、私が小説家になりたいとお母さんに言えば、少なくともバレーを辞めることはできると思った。 「よし」  私は一人のリビングで意気込んだ。さっそく使わずに置いていたお気に入りの猫のイラストの書いた新しいノートを広げた。  高揚した気持ちのまま一気に書こうとしたが、一行目に何を書けば良いのかわからなかった。作文は学校で書いたことがあるので、作文のようなものでいいからこの気持ちが冷めない内に何か書こうかとも思ったが、そもそも、私は作文という自分が体験したことを思い出して書くという作業が嫌いだった。私は自分が体験したことなんて書いても面白くないと思った。それに、身の回りのことを書くとなると、どうしてもお金のこととか学校の人間関係とかお母さんとの関係とかそんなことを思い出してしまう。私は、そんなことからは遠く離れたことを書きたいと思った。だから私は想像した。私とは関係ない遠くの誰も知らない世界の話を。  主人公は冬子という私と同じ11歳の女の子。夏休みのある日、猫を追いかけて裏道を進んでいたら不思議な世界に迷い込む。その世界でキャップという二足歩行の帽子をかぶった身長1メートル20センチくらいの黒い猫とお友達になる。冬子はしばらくキャップに連れられてその世界を楽しんでいたけれど、だんだんとその世界は悪い王様が支配している理不尽な世界だったということに気づく。そして、実はキャップはその悪い王様を倒そうとする革命軍のリーダーであるということがわかる。  私は夢中になって書いた。一度アイディアが生まれると後は自然と話が浮かんでいった。キャップは紳士なオス猫で主人公の冬子に好意を持っている。だから、冬子が丘の上の夜景なきれいな場所で革命軍に加わりたいことを伝えたとき、キャップはそれを断った。その帰り道、悪い王様の家来に見つかって二人が襲われたとき、冬子の特殊な能力が発揮される。冬子は悪い王様が家来に遠くから指示を出すときの特殊な声を聞くことができたのだ。その能力のお陰で冬子達は悪い王様の家来から逃げることができた。そして、その能力こそが革命軍が探していた能力で、冬子を革命軍のメンバーに正式に加わることとなる。そして、冬子の能力を使って革命軍の最終作戦が実行されることとなる。  アパートの部屋の鍵を開ける音がして我に返る。お母さんが帰って来たようだ。いつもより早く帰ってきたのかと思って時計を見ると、もう既に夜の7時を過ぎていた。 「ただいま。すぐご飯作るからね」仕事から返ってきたお母さんは優しい声でそう言った。私はお母さんの方へ駆け寄っていって、お母さんが手に持っていたスーパーの袋を受け取った。 「お母さん、お手伝いするよ」私はそう言った。私はとても気分がよかった。なんだがすべてが良い方向へ進むような気がした。 「ありがとう由紀子ちゃん。今日はなんだかご機嫌ね」  お母さんと一緒に晩御飯を作った。今日はメインのおかずは豚の生姜焼きだった。これくらいなら私でも作れるので、私が豚の生姜焼きを作ることになった。御飯をさっと作って一緒に食卓についた。自分が作った生姜焼きはお母さん程じゃないけど、満足がいくくらいの味だった。御飯を食べながら私は上機嫌で言った。 「私ね、やりたいことが見つかったの」 「やりたいこと?」 「うん。私ね、小説家になりたいと思うの」 「小説家?あなた作文書くのいつも嫌そうにしてたじゃない。急にどうしたの?」 「作文と小説は全然違うものなの。もうすでに書いてるんだよ。また完成したら読んでね」 「それは楽しみね。小説を書けるなんて、由紀子はすごいわね」  お母さんにそう言われて私はとても嬉しい気持ちになった。そして、この調子であのことも言おうと思った。 「それでね、私ね、小説家になることを目指すから、もうバレーは辞めるね」私はできるだけ明るい声でそう言った。 「…あなた、それ本気で言ってるの?」と、お母さんは真剣な声を出して言った。食卓の空気が急に変になっていくように感じた。 「そうだよ。小説家になるから、もうバレーをする時間はないの」私はそれでも明るい声で話を続けた。「これは私が見つけたやりたいことなんだから」 「…小説家を目指すのはいいわ。でも、だからってバレーを辞めることはないんじゃない?あんなに楽しそうにしてたのに」お母さんの声から緊迫したものを感じた。 「バレーが楽しいんじゃなくて、お友達といるのが楽しかっただけなの」 「お金のことを気にしてるの?お金のことなら気にしなくていいって言ってるじゃない。私はバレーをしているあなたを見るのが好きなのよ」とお母さんは悲しそうな今にも泣き出しそうな顔をして言った。 「それはお母さんの自己満足でしょ。私はバレーなんて別にしたくないの」と私はつい冷たい言い方をしてしまった。 「なんてこと言うの。私はあなたのためにこうやって毎日一生懸命働いているのよ」お母さんは今にも泣きそうな声を出した。お母さんの目は赤っぽくなっていた。 「そんなこと誰も頼んでないじゃない!」その時、私は自分の感情が止められなくなった。私はそう大きな声で言って、私が作った生姜焼きの入ったお皿をテーブルから勢いよく跳ね除けた。生姜焼きの入ったお皿は横の食器棚にあたって食器棚のガラスが大きな音を立てて割れた。跳ね除けた時に生姜焼きのたれが私の手や服やそこら中に飛び散った。生姜焼きの横においていたプチトマトが玄関の方へと転がっていった。 「なんてことするの!こんなことする子は家の子じゃない。出て行きなさい」お母さんは目を見開き私をまっすぐに睨みつけてそう言った。私は、お母さんのそんな顔を見たことがなかった。そのとき、私はお母さんの本当の顔を見たような気がした。私はビニールのカバンと上着を掴んで勢いよく家を出た。  私はしばらく走って、お母さんが追いかけてきてないことを確認してからバレー教室に向かうことにした。バレー教室に行けば更衣室のソファーで眠って夜を明かすことができると思ったからだ。この前歩いて帰ってきたから、だいだいの道はわかった。  外はもう完全に暗くなっていて、私は歩きながらなんでこんなことになったんだろうと思った。そして、これからどうやって生きていこうかと考えた。小説家になるとしても今日、明日でなれるものではないので、とりあえず誰か私を家においてくれる人を探さなくてはいけないと思った。おばあちゃんの家もここから遠いし、こんな状態でお友達の家に行くのはなんだか恥ずかしかった。お父さんにはもう別の家族がいるから、その家に行くのは止めようと思った。それによく考えると、そもそも私はお父さんの家の場所を知らなかった。  夜空を見ながら道路沿いの道を歩いた。車がたまに風を切って私の横を通り過ぎる。流れ星が流れた時のために、予め願い事を考えておこうと思った。いろいろ考えたが、やはりお金が欲しいと思った。あとは、キャップのいる世界に行きたいと思った。キャップがいる世界は街の人たちが王様のせいで理不尽な思いをしてるけど、ここよりはずっと自由があっていい世界だと思った。私は歩きながら頭の中で小説の世界の続きを想像した。    冬子の特殊な能力のお陰で革命軍の作戦は成功し、キャップ達の世界に平和が訪れる。そして、冬子はキャップと一緒に暮らすことになる。二人は丘の上の夜景がきれいで日当たりがいい場所に家を建てる。そして、毎日その家にお友達が来てホームパーティをする。そして、いつしかキャップとの間に男の子が生まれて、その子のことをブーツと名付ける。そして、その子が11歳くらいになったところで、主人公がその子に変わる。その子は人間と猫族のハーフなので、町の人たちから差別されることもあるが、徐々に街の人達もブーツを受け入れてくれるようになり、だんだんと優しくしてくれるようになっていく。しかし、そんな時に隣の国から悪い噂が流れてくる。それは人間と猫族のハーフの者がこの世界を滅ぼすという噂だ。その噂によってまた、ブーツは差別的な扱いを受けるようになってくる。悔しい思いをしたブーツは、その噂の正体を確かめるために隣の国へ向かうこととなる。    ふと暗闇の中に浮かび上がる影に気がついて驚いた。よく見るとそれは2メートルくらいの大きなスーツを着たおじさんの銅像であった。こんな目立つものがあったなら私はバレー教室の帰りにも気がついていたはずだった。その銅像は明らかに初めて見るものだった。ここは一体どこなのだろう。急に不安な気持ちになってきた。私は取り敢えず、わかる場所まで引き返そうと思った。しかし、いくら戻っても私が知っている道にはたどり着かなかった。それどころか、より知らない場所へと向かっているような気がしてきた。周囲を歩いている人もだんだんと減っていった。途中コンビニを見つけたので、中に入ってトイレを借りて、水道の水を飲んだ。その時、店員さんから変な目で見られた気がしたが、話し掛けられることはなかった。  もう一度バレー教室の方向だと思われる方向へ歩いて行こうと思った。銅像については、前回ここを通った時はたまたま気が付かなかっただけなのかもしれない。基本的に一本道なのだから、まっすぐ進んでさえいれば必ずバレー教室に着くはずだと思った。  しかし、それからいくら歩いてもバレー教室には着かなかった。夜は刻々と更けていった。それにともなって私の不安な気持ちはどんどん大きくなっていった。道路を走る車は私を威嚇するように乱暴で大きな音を立てて私の横を通り過ぎていった。  私は歩く速度を速めた。そして、急いで歩きながらも注意して空を見て歩いた。夜空には星も一片の曇も見えなかった。ただ、赤っぽい月が不気味に浮かんでいるだけだった。その夜空を見ているとなんだか今にも世界が終わるような気がしてきた。流れ星は一向に流れなかった。  その時、黒い猫が私の前をふっと横切った。私は咄嗟にその猫を追いかけた。見失わないように懸命に走った。その猫はどんどんと裏道に入り込んでいった。私は無我夢中だった。そして、気が付くと月は白く明るい満月になっており、ライトのように地上を明るく照らしていた。周囲を見渡すと、そこはまるで中世のヨーロッパの様な町並みだった。さっき追いかけていた猫はいつの間にか二足歩行になって少し体が大きくなって帽子を被っていた。その猫はこちらを振り向いて、呆然としている私に向かってこう言った。 「僕らの世界へようこそ」  キャップだと思った。私は笑顔で走り寄って彼に抱きついた。  目が覚めると知らない天井だった。起き上がろうとすると体が動かなかった。必死に首を動かして周りを見た。周囲は白いカーテンに仕切られているようだった。私の腕には点滴、足にはギプスが付けられていた。そして、誰かが私の頭に左側にいる気配がした。遠くから声が聞こえた。誰かが由紀子ちゃんと言っている。 「由紀子ちゃん」  今度ははっきりと聞こえた。お母さんの声だった。お母さんはうろたえた表情で横になっている私を覗き込むように見た。なんで私がここにいるのかも、なんでお母さんが傍にいるのかもわからなかった。 「ごめんね」そう言ってお母さんは私の手を握った。私はその時、そんなつもりはなかったのに目から大粒の涙を流してしまった。  後から聞いた話だと、私は道路に飛び出して、軽自動車に轢かれたらしい。そして、カバンに入っていたバレー教室の会員証のお陰で私の家まで連絡が入ったらしい。また、私が車に轢かれた場所はバレー教室の場所よりかなり南にそれた場所であったらしい。  私は1週間程入院してから退院した。しばらくは、足にギプスを巻いた状態で生活しなくてはいけないとのことだった。家に帰ってから、お母さんは私に反省していると言った。私もお母さんに謝った。そして、これからのことをお母さんと落ち着いて話し合った。  私は近所の大学生がボランティアでやっているダンス教室に入ることになった。私は、ダンスをすることが好きだった。新しい友達もできて、すぐにそのクラブに馴染むことができた。勉強も今までよりちゃんとするようになった。  そして、1年と5ヶ月程が過ぎて、私は中学生になった。中学生になるとすぐにダンス部に入った。  そして、今度、中学生になって初めての文化祭がある。お母さんはその日は仕事を休んで来てくれるとのことだった。私は精一杯練習の成果を見せたいと思った。日常が忙しくて、小説はだんだんと書かなくなっていった。でも、たまに考えたりする。次にまたあちらの世界に行くことができたときに、彼とどんなことを話そうかと。
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