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「その二人、付き合ってどれくらいになるんだっけ?」
わたしの話の区切りのいいところで、片桐くんが聞いた。
「高校生の頃からだから、……もう十三年? うわぁ、なんか時の流れを実感して、わたしがショックだわ」
片桐くんは一言、「それは長いね」と返してから、グラスに口をつけた。
片桐くんとは高校は別だが、二十歳の時に中学の同窓会で再会してからなんとなく友達でいる。気が向いたとき、お互いなんとなく付かず離れずの程よい関係を崩すことなく、不意に連絡を取り合ってこうしておしゃべりをする。その心地よさに最近ようやく気付き、感謝していることは直接彼に伝えてはいない。
片桐くんは背が高い。でも動きはすごく緩慢で、物腰も柔らかい。ナマケモノに少し似ている。彼に言わせると、それはわざとなのだそうだ。
「動ける奴だと思われると、要らない用事まで言いつけられるからさ。動きの鈍い奴だと思われてた方が都合がいいんだ」
そう言って目を細くする彼を見て、それが本当なのか冗談なのか判断がつかずにいた。
「顔はシェパードだけど、動きはナマケモノだね」
わたしが言うと、片桐くんは「それでいいんだ」と笑った。
「で、その芳恵さんたちはどうしてまだ結婚しないの? そんなに長く付き合えるのなら、この先もずっと一緒にいられるんじゃないかって僕は思うんだけど」
芳恵はわたしの高校生の時からの友達で、その頃からずっと付き合っている人がいる。穏やかな性格の二人は大きな諍いもなく、誠実に時を重ねていっているようにわたしには見えていた。
「んー、お金がないからって言うんだよね」
「うーん、どうしてそんなにお金がないんだろう? 普通に働いているんでしょ?」
「そこがね、芳恵ちゃんの不思議というか愛すべきところというか……」
わたしはそこまで口にして、思わず吹き出してしまった。
「いや、笑っちゃいけないんだけど。この前は莫大な水道料金を請求されたって聞いたよ」
彼女のアパートは少し古く、トイレの水が少しずつ流れっぱなしになっていたそうだ。そのことに気づかずに実家に帰省してしまった彼女は、その月の水道料金を見て愕然とした。
「その前は空き巣に入られたって聞いたし、そろそろ引っ越しを考えていた矢先で、本当に困ってたよ。でも、本気で引っ越すって昨日は言ってた」
「そのときは手伝いに行ってあげよう」とわたしが言うと、片桐くんが呟いた。
「その時は僕も行って手伝おうかな」
必要最小限の動きしかしたくないという省エネ志向の片桐くんとは思えない発言に、わたしは思わず聞き返していた。
「え!」
「意外? たまにはね、いつもはしない動きをしてみようかなって」
そう言って片桐くんは満面の笑みを浮かべた。
「ねぇ、あの約束覚えている?」
片桐くんが外の様子を眺めながら、何気なく口にした。それを聞いて、わたしの意識はあの夜へと一瞬で呼び戻された。
二十歳の時の同窓会で、片桐くんと久しぶりに会話をした。中学の時、同じクラスではあったけれど必要以上に言葉を交わした記憶はなかった。それなのにどうしてその夜は隣の席になり、連絡先を交換したのか、今考えても不思議だ。そのときは会話が驚くほど弾み、まるで長年の親友のように感じたのだ。
「ね、約束。覚えている?」
片桐くんが、今度はわたしの目をしっかりと見て問いかける。
約束。そう聞いて思い出すのは、その夜の約束。
他愛もない、お酒の席での軽い冗談とも思えるものだ。
「え、約束って……」
「うん。お互い三十歳になってもお互い結婚していなかったら、結婚しようって約束」
わたしは何も言えなくなってしまった。
覚えていた。でも、そんな軽口を信じてしまうことが怖かった。
「僕はずっと覚えていたよ。こうしてたまに会うたびに、君に恋人がいるか確認していた。それなのに……もうすぐ三十歳になるってときに結婚してしまうし」
わたしの心臓が、息苦しくなるほどに早く脈打っていた。めまいがする。
「もう三一歳になったよ。待ちくたびれたよ」
わたしは声がかすれるのも構わず、問いかけた。
「その約束、一度結婚して、こうして離婚した後でも有効なの?」
「うん。君が離婚するのを待っていたら、三一歳になったって言ったろう? いつまで待たせる気なの」
わたしは堪らず顔を伏せた。
片桐くんが好きだと自覚してから、ずっと苦しかった。
この関係を崩すのが怖くて、ずっとこの感情を隠していた。隠し続けた。
「……わたしも離婚してから引っ越したりで、お金がないよ」
「うん。それでもいいよ。ようやくスタート地点に並ぶことができたんだ」
じっとみつめる片桐くんの目が、素直になれなかったわたしの心を捕らえて揺さぶる。もう逃れることはできない。
「これからもずっと一緒にいよう。これからは誰よりも近くで、君を見つめていくよ」
なんという気障なセリフ。わたしは思わず吹き出してしまう。
「ナマケモノのくせに」
「いざという時のために力を温存しておく主義なだけだよ」
ずいぶんと遠回りしてしまったが、片桐くんの言う通り、私たちは今ようやくスタート地点に立ったのだ。
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