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静かな薄明かりの灯る廊下に、神経質な足音が響き渡る。
慣れ親しんだ海竜宮の廊下をこんな乱暴な気持ちで、これまた良く見知った場所まで歩くことになるとは、思ってもいなかった。
角を曲がったところで見えてきた目的地に、維矢留の目尻が一気に吊り上がる。
部屋の戸に手を掛けたところで、戸が勝手に内側から開いた。
「あ、あの。維矢留様?」
かつての同僚から遠慮がちに掛けられた声に、維矢留は複雑な気持ちで溜息を吐いた。
「羽垂、そこを通して下さい。」
そうなるべく平静な口調で告げるが、羽垂は少しだけ怯えたような目をこちらに向けた。
「あら、維矢留が羽垂を苛めてるわ。酷い子ね。」
部屋の中から掛かった、明らかに面白がっている瑠和の言葉に、維矢留はむっと顔を顰めた。
「なに、引き籠りでカリカリしておるのであろうよ。困った息子よな。」
それに続いたこの揶揄する言葉には、維矢留も完全にぶち切れた。
羽垂を避けて部屋に押し入るなり、和悟之の頭上で凝縮させた水の塊を弾けさせた。
途端に飛び散った水で、和悟之の居室は水浸しになった。
「瑠和、流石はそなたの息子よな。やる事がそっくりではないか。」
和悟之が呆れたような顔で一緒に濡れることになった瑠和に顔を向けた。
「失礼しました。つい引き籠りの苛々で。」
維矢留は全く笑っていない顔で、そう嫌味の込もった詫びの言葉を形ばかり口にして、居室からさっと余計な水を取り払う。
「やれやれ、力ばかり強くなりよって。困った息子よ。」
「はあ。折角可愛らしい男の子の姿で海竜になったのに、生意気盛りに成長しちゃうなんて。つまらないわね。」
勝手なことばかり口にする両親に、維矢留は深々と溜息を吐き出した。
「和悟之様、いえ、父上。何故、向こう50年間地上に出ることを禁じられなければならないのですか!」
維矢留は、埒が明かないとばかりにいきなり本題に入ることにする。
「ほう、そなたそんなことも分からぬ程、愚かであったのか。」
色々と思い当たることはあるが、言いたいことも聞きたいこともそれではない。
「海竜となった者が、宮を出たまま戻りもせず、本来の役目も放棄して、月に一度の宴にも参加せず。挙句地上の風の者と怪しげな取引をして身動きも取れぬような有様。わざわざ我に迎えに行かせておいて何が言えるのか、逆に聞いてみたいものよ。」
一々胸に刺さる話しだが、ここで負ける訳にもいかない。
「その件については、反省しております。」
莉堵を助ける為に向かった人の都の皇帝の宮で、風を司る者と中途半端な取引をしかけて、結果それは白紙に戻ったのだが、お陰で成長の仕方が何となく掴めてしまった。
という訳で、待望の人間で言う20歳前後の外見に変化を遂げたのだが、和悟之から、向こう50年間は地上に出るなと言い渡されたのだった。
維矢留の取った軽率な行動については反省しているし、海竜としての務めということについても考えてみた。
維矢留が海竜となったことで、海には維矢留に連なる新種の魚達が誕生したのだという。
彼らの繁栄を願い、守り導く役目を果たして行かなければならないということは心に刻んだ。
だが、それとは別のところで、維矢留にももう一つ区切りを付けるべき事柄がある。
莉堵のことだ。
維矢留が海竜となったのは、莉堵を守れる者になりたいと思ったことが大きなきっかけだった。
莉堵を愛しく思い、今でも可能なら振り向いて欲しいと思っているのは事実だ。
莉堵が渡津依を深く想っているのも知っているし、その心を無理矢理失わせてしまいたいと思っている訳ではない。
それでも、こちらも気持ちの整理を付けたいのだ。
今の成長した維矢留を見て、もう一度だけ莉堵に想いを伝えたい。
そして、やはり振られたなら、諦めて彼女の幸せを遠くから願う者になろうと心に決めた。
最後のその儀式の為に、維矢留は今一度だけ地上に出たいのだ。
「一度だけ、一目だけ、莉堵様に会って言葉を交わしたいのです。どうかそれだけお許しください。」
維矢留は、和悟之に頭を下げる。
和悟之の探るような鋭い視線を感じる。
瑠和もここでは口を挟んで来ない。
「そなた、せっかく苦労して幸せを掴んだ莉堵を、まだ惑わしたいのか? それで、本当に莉堵を想っていると言えるのか?」
和悟之から厳しい言葉が来る。
「莉堵様のご苦労は分かっております。この宮でも、旅の途中も、人の都に入ってからも、本当は少ししか過ごしたことのない渡津依とのことをただ一途に考え続けて、悩み続けて、漸く出した答えを求める為に、また苦労して悩み抜いて。」
そうして手にした今の幸せは、莉堵にとってどれほど大事なものかは分かっている。
「でも、だからこそ。私も自分の気持ちにきちんと区切りを付けておきたいのです。中途半端に迷ったままで、後悔し続けると、いつかはそれがつまらないものに変質してしまいそうで。・・・間違っても、莉堵様や渡津依のどちらかを恨むようなことにはなりたくない。」
和悟之の長い沈黙が来る。
維矢留の本意を慎重に推し量っているのだろう。
「やれやれ、海竜とは面倒なものよ。そなた海竜になどならねば良かったのにの。そうなれば、莉堵は生きて地上には戻れなんだであろうよ。」
維矢留は驚いたように和悟之を見返す。
「我はそなた程優しくはない。あれは最後の最後に迷った。迷わずに我からさっさと薬を貰い、自らの意思で地上に向けて泳ぎ出ることも出来た筈であろうに。結果として我に惑い、そなたを頼った。そう見るとあれは、そなたを惑わす悪しき人の内とも言えるのではないか?」
和悟之の言葉に、維矢留は酷く反発を覚える。
「莉堵様は! そんな人ではありません。」
何故か悔しくて涙が滲む。
「和悟之、貴方苛め過ぎ。」
瑠和がここで初めて口を挟む。
「仕方あるまい。幼過ぎて見ておれんのよ。・・・莉堵はまだ良い。今のあれは真っ直ぐで美しい心を持っておる。したが、こやつは人が全てああだと思うやもしれぬ。それではいつかは騙されて取り返しがつかぬことをしてしまうやもしれぬ。」
維矢留は目を瞬かせる。
「それくらいなら。恨んで人など嫌いでいる方が良い。」
「あら、苛めてたんじゃなくて、過保護だったのね。」
呆れたような瑠和の言葉に、維矢留はまた目を瞬かせた。
「ええい。女々しい奴よ。莉堵にさっさと振られてくるが良いわ。したが、己がこの間誰に騙され掛けたか忘れるでないぞ。無闇に人に懐くでない。」
和悟之はそれだけ告げると、さっと手をこちらに向けて払うような仕草をした。
途端に、維矢留の身体は後ろに吹き飛ばされて、開いていた戸の向こうまで飛ばされていった。
「維矢留様! 大丈夫ですか?」
向かいの壁に激突した維矢留を、羽垂が助け起こしてくれる。
「ああ、有難う羽垂。」
礼を言うと、羽垂がにこりと微笑んだ。
「良かったですね。」
何がとは言わず、羽垂はただそれだけを言って、頭を下げると和悟之の居室に入ってその戸を閉めてしまった。
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