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ある日な。おれは聞いちまった。
憧れの旅籠屋のお嬢さん。それとおれと同じ時期に店に入った丁稚仲間。その二人が仲睦まじく寄り添って、なんか、こう、甘い雰囲気に包まれているのを。で、そのさなかにおれのことを話しているのをさ。
「元吉がさっき水桶ひっくり返しましてね。おかげでお嬢さんを訪うのが遅くなっちまった」
「あら、あなたに迷惑をかけるなんて。元吉は酷いのねぇ」
「そう言ってやらんでくださいよ。あれで元吉、お嬢さんにほの字ですんで」
「……え」
その、お嬢さんの顔をなんて言おうかな。「うわぁ」とか「いやだ」というか。こう、心底気味が悪そうな。総身を震わすような嫌悪感。そんな感じ。両腕さすって、すっかり表情が固まってたんだ。
蔵の影に隠れて聞いていたおれは、足の下から頭のてっぺんまで血の毛が引くようだったよ。
その場から、一目散に逃げだした。丁稚部屋に置いてある、与えられた枕の中に隠した銭を握って、店を飛び出していたんだ。
そこから、どこをどう走ったのかは、おれも覚えていない。
ただ、気がついたら夜の山道を歩いていた。あとからわかったんだが、東海道をちょいと外れた場所だったみたいだな。街道を反れていたから、関所にも捕まらなかった。
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