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車での長旅に疲れて眠ってしまった子供たちを、そっと布団に横たえた。
ひっそりと地面を打っているはずの霧雨の音が、やけに耳に障る。
一昨日から止まってしまった時間の流れ。
その上をふたつの呼吸音が漂い、混じり合っていた。
十年前、厳格な両親からの束縛を逃れ、自由を求めて旅立った兄。
幸せになって戻ってくる――そう言い残し、彼は去った。
自力で大学を卒業し、結婚。
小さな工場に就職し、双子を育てていた。
それは跡継ぎとして決められたレールの上を歩んでいる俺に比べたら、不自由と苦労ばかりの人生だったに違いない。
自分の望んだ幸せのために家を捨てた兄を、父は裏切り者と口汚く罵った。
母は、ただ悲しみに明け暮れた。
それでも兄は、笑っていた。
ところどころ引き攣れた畳の上を擦り足で横切り、縁側に下り立つ。
眼前に広がるのは、古き良き日本庭園。
空気の上を漂う湿気の粒が、いつもは色鮮やかな景色を薄めていた。
権力の誇張のようだと、兄さんが嫌悪していた庭木。
それでも家を出て行く前日、彼は俺を誘った。
そして俺たちは、ふたりでこの庭を歩いた。
言の葉を交わすこともなく、ただゆっくりと、小さな小石のひとつひとつを踏みしめるように。
その時、彼がなにを思っていたのか、今となっては聞くこともできなくなってしまった。
あの日の兄の儚い微笑みが、まぶたの裏に焼きついて離れない。
なにかを愛しむように、微かに震えていた兄の瞳。
兄さん。
貴方の目には、なにが見えていたんですか――?
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