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家に帰ると祖父がまた名刺を破っていた。
「松村さん、また来てたの」
「ああ、いまさっき帰ったよ。しつこいもんだ」
八城さんは、命令されていた感じだった。あの口ぶりからすると母親か。
僕のことを知っている母親――。嫌な予感がした。
「おじいちゃん、松村さんって子供いるって前に言ってたっけ」
「そういえば言ってたな、たしかお前と同じくらいの年の娘がいるとか」
気付けば走り出していた。
「おい、幸多どうしたんだ!」
心の中で謝りながら、僕は八城さんのアパートまで走った。
インターホンを何度も鳴らすと、不機嫌な顔の松村が出てきた。
「え、幸多君、なんでここに」
「……松村ってご結婚されてた時の名前だったんですね」
松村の顔が青ざめる。
「え、いや、これは」
すると奥からか細い声が聞こえた。
「……お母さん、もういいよ。もう田川のことはそっとしておいてあげて」
「八城さん……っ」
松村の静止を振りほどき部屋の中に駆け上がった。まだ日は沈み切ってないのに部屋の中は薄暗い。八城さんは部屋の奥で体を抱えるように丸まっていた。よく見ると体中痣だらけだ。
「なんてひどいことを」
「大丈夫、いつものことだから」
八城さんの声は震えていた。
ガチャっとドアが閉まる音が聞こえた。
「はあ、仲良くなれとは言ったけど、あんたがほだされてどうすんのよ」
振り下ろされる灰皿に気づいた僕はとっさに八城さんに覆いかぶさる。同時に、頭に鋭い痛みがはしった。八城さんの小さな悲鳴が聞こえた。
「幸多くんどきなさい。私は出来の悪い娘をしつけてるだけなのよ」
僕はどかなかった。何度も何度も鈍い痛みが襲ったが、八城さんだけは守りたかった。
「八城さんは、僕の大事な友達だから」
八城さんが腕の中で泣きじゃくっているのが分かった。何度目かの痛みで意識がもうろうとした時、彼女は僕の腕の中から飛び出した。
「もう、お母さんやめてっ」
八城さんは僕の頭を叩きすぎてへこんだ灰皿をよけると、松村に体当たりをした。一瞬のことで何が起きたか分からなかった。
松村は数歩よろけたあと血を吐いて床に倒れた。よくみるとナイフが心臓あたりに深々と刺さっている。
八城さんがナイフを抜くと血が一気に噴き出た。
「や、八城さん」
重い体を引きずりながら彼女に近づく。八城さんはその場に座り込んで泣いていた。絶え間なく伝う大粒の涙が血だまりの中に消えていく。
「ずっと隠し持ってたんだけど、でも使うつもりなかったの。なのに田川が殴られてるのみたら、ついかっとなっておか、お母さんを」
僕は震える唇をかみしめた。
「……八城さん、今ならまだ君が殺したって事実は消せる。」
松村の数字はだんだんと薄くなっていた。八城さんは何も答えなかった。
僕が開いたままだった瞼を下した瞬間、灰色の煙を出しながら死体は溶けていった。脳を突くような異臭に吐き気がこみあげてくる。八城さんはじっと血だまりの中にひらひらと落ちていくたくさんの一万円札を泣きながら見つめていた。
「たったこれだけなんだね。ねえ、お母さんいくらだったの」
僕は答えなかった。具体的な数字を聞くことがどれだけ辛いことか分かるから。何も言わない僕に八城さんは力いっぱい抱き着いて子どもみたいに泣きじゃくった。
人を消したのは初めてなのに、サブロウタほどの悲しみは生まれてこなかった。誰かが決めた金額の中ではこの人はサブロウタの何十倍も価値あるものだったのに。
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