雪の舟には乗れない

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雪の舟には乗れない

 寒空の下、かじかむ耳を指で撫で、眺流は海辺を見渡していた。  漁が盛んなこの地域では、木舟が幾艘か静かに並んでいる。浜風は皮膚が切り裂けそうなほど冷たいが、今日は珍しく風が弱く、夜の散歩も苦痛ではない。純度の高い星空は凍りついている。閉じられた商店の側には自販機がある。自販機の仄暗い灯りだけを頼りに目的の人物を探した。  木舟の縁に座る一人の青年がいた。 「こっちこっち」  青年は真っ白なフリースを着ていて、夜闇の中でも雪のように光り輝いて見えた。  ラムネの瓶を思わせる涼やかな声は、まだ大人になりきれていない彼らしい。昨年高校を卒業し就職したにも関わらず、依然彼の少年性は保たれたままだった。学校でも自由気ままだった彼の少年時代を思い出して、眺流は白い息を吐いた。 「こんな時間に呼び出してどうしたんだ、雪野」  雪野は木舟の縁から飛び降りると、いつものように微笑んだ。雪野は昔から意味ありげな微笑を浮かべている青年だった。 「まさかこんな時間に来てくれるとは思わなかったよ」 「なに言ってんだ。しょっちゅう呼び出してるくせに」  眺流は再びため息をついて、雪野の隣に並んで夜の海を仰いだ。海は、数週間前に行った地元の小さい水族館と比べて暗く、夜空と変わりない。定期的に雪野が水族館やプラネタリウムに行きたがるので、眺流はよく彼に付き添って出歩くのだ。星空が見える海辺に住んでいるのにも関わらずだ。 眺流が雪野を知ったのも、小学生のときの絵画コンクールだった。そこでも雪野は海と夜空の絵を描いていた。深い青で塗りたくられた星空。天の川に包まれた白い影の空飛ぶ船に、ぐんと引き寄せられた。そして一番忘れられないのは、空を飛んでいく船を煌々と照らす、巨大な一つの青い星だった。  そのコンクールがきっかけで話しかけて以来、眺流と雪野の関係はぐだぐだと続いている。いわば腐れ縁のようなものだった。 呆と海を眺めていると、隣でチャリ、と金属の擦れる音が聞こえた。雪野はいつも身につけている青い星の石が埋め込まれたペンダントを外し、ズボンのポケットに入れた。 そして雪野は軽やかに、海に向かって歩みはじめた。 「おい、どうしたんだよ」  問いかけても答えはない。眺流は途端にこの青年にたいして薄ら寒いものを感じた。本当にこの青年は自分の知っている雪野なのか。そんな気味の悪い想像を打ち払って、歩みを止めない雪野を追いかけた。 「おい!」  雪野は眺流の言葉に応じず、静かにブーツを脱ぐ。裸足になって、冬の海へ踏み出した。  冬の海に入っていく雪野を追いかけるのを、ほんの一瞬躊躇した。しかし彼をこのまま放っておけず、慌ててスニーカーを脱いで海に足を浸けた。心臓が縮む冷たさのせいか、身体が急激に冷めていく。既に雪野は肩まで浸かっており、眺流は必死に叫んだ。 「雪野! 戻ってこい!」 呼んでも聞かない雪野に苛立った。そうしているうちに、雪野の身体は海の波に呑まれてしまう。  慌てた眺流は雪野の名を呼ぶが返事はなかった。眺流は深く息を吸い込み、海の中へ潜る。  視界が水泡でいっぱいになりなにも見えなくなる。泡が水面にあがる頃、急激に視界が開けた。心なしか、切り裂くような寒さも、海の冷たさも感じなくなっていた。  視界が開けた先にいたのは、白いフリースを着た雪野だった。 「ここまでついてきちゃったか。でも、来てくれてよかったよ」 「なに言ってんだ。呼び出したのはお前だろ」  雪野の目は嬉しそうに細められているが、口元は寂しげに笑んでいた。白い服を着ているせいか、海の中でもやはり蛍のように発光している。雪野の隣には、不思議な白い線で作られた潜水艦があった。 「君にもこの宇宙船を見てもらいたかったんだ」 「宇宙船? 潜水艦じゃなくてか?」 「海にも潜れるよ。触ってみてくれ」  海の中でも雪野の声がはっきりと聞こえる。 恐る恐る淡く光っている宇宙船に触れてみると、心地よい冷たさが掌に沁みた。宇宙船は糸のようなもので編みこまれていて、母が編んでいるマフラーによく似た感触があった。 「これはなにでできているんだ? 糸のようだが……」 「雪の結晶で編まれているんだ」 「雪? 海の中だぞ。普通、溶けて消えるだろ」 「消えないよ。ここは寒くて暗いからね」  仄かに光る雪野はふふ、と笑って、眺流の手を取った。雪野の手はほんのり温かかった。 「せっかくだからちょっと海の中を探検しよう。さあ、乗って乗って」 手を引かれるままに宇宙船に乗り込んだ。宇宙船の中は想像していたよりも暖かい。雪野は運転席に座ると、ハンドルを握った。眺流は慌てて助手席に乗り、宇宙船にはめられたガラスの窓を見た。 「出発進行」  雪野ののんきな声とともに、船は前進した。 雪野は怯まずぐんぐんと潜っていく。海の色は夜よりも暗く、胸の内を不安にさせるのだった。宇宙船内部の白に、ガラスの窓から見える深海の黒がくっきりと切り取られていた。 先の見えない海の中で、ある影がよぎった。長大でベールのような影は、宇宙船の前を通り過ぎていく。 「あれは……?」 「リュウグウノツカイだね」 「龍みたいだったな」  深海生物たちが宇宙船を素通りしていくのが不思議だった。眺流は雪野に尋ねる。 「おかしくないか? これだけ白かったら獲物だと思って食いついてきそうなのに」 「雪の結晶で編まれた船だからね。霞のようなものなのさ」 「さっきも言ってたけど、雪の結晶で編むなんてありえないだろ」 「ありえるさ。なんたって二月の夜だからね」  先ほどから掴みどころのない返答ばかりする雪野に、再び苛立ちが募る。いつもあやふやな返答ばかりする雪野だが、特に今日はひどかった。それでもいつもの雪野だと思うようにして、溜飲を下げる。 「海の中は、冬の夜に似ているね」  まただ、と眺流は不安を抱く。雪野は構わず穏やかな声音で囁いた。 「雪の降る夜と一緒だ。プランクトンが浮遊しているさまは、まるで雪のようだ」 「なに言ってるんだよ。プランクトンなんて見えないだろ」 「この前水族館に行っただろ? そこの深海魚コーナーで深海の映像が流れてた。白い雪のようなものがたくさんあったじゃないか」  突然なにを言い出すのかと思って横目で見やると、彼はすらりとした横顔を緩めて、愛おしそうに目の前の闇を見つめていた。その表情は、今までに見たことのないほど安らいだものだった。 「さて、そろそろ僕は行かなくちゃいけない。君とはここでさよならだ」 「……行くなよ」  震える声でだだをこねた。 「行くなら俺も連れていけ」 「それは無理だよ」  雪野には珍しい、はっきりとした拒絶の言葉だった。雪野は海の闇から視線を眺流へ向け、自嘲気味に微笑んだ。  真っ白な、綺麗すぎる微笑みだった。  笑った雪野はハンドルから手を離し、眺流の右手を両手で包んだ。そして、眺流の手の中に硬くて冷たいものを忍ばせてきた。 「だって君の手はこんなにも冷たいじゃないか」  雪野の手は、溶けてしまいそうなほど熱かった。  目が覚めると、眺流は浜辺で寝そべっていた。  あまりにも周りが騒々しい。呆けた視界は、男性の切迫した表情でいっぱいだった。 「武石さん、聞こえますか?」  服装を見る限り救助隊員のようだった。はい、と震える声で答えると、途端に寒さで身体が痙攣した。服どころか全身がびしょぬれだ。鼻の粘膜を刺激する磯の臭いに頭がくらくらする。自分を移動させるのだろう。男性の顔が見えなくなると、白い紙に灰を滲ませたような空が眼前に広がった。  既に夜は明け、静けさはどこかに過ぎ去っていた。ふわりと空から雪が舞い落ちる。頬に触れた雪の冷たさは皮膚にじんわりと滲んで、すぐに消えてなくなった。数日前、雪野が海難事故で亡くなったことを思い出した。 硬く握られた右手を開いてみると、そこには雪野がいつも首にさげていたペンダントがあった。  雪野が愛していた、青い星の石がはめられたペンダント。  眺流は恨み言を吐かずにはいられなかった。 「なんで連れて行ってくれなかったんだ」 涙がこぼれてやまなかった。雪野の白がいつまでも目に浮かんで消えないのであった。
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