二千円物語

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 あれは、就職の為に上京し一ヶ月が経った五月、日曜日の夕方のことだった。  さて、お勘定。雲野剛之(うんのたけゆき)は、ラーメン屋のカウンター席から立ち上がりかけた時、気が付いた。  ズボンのポケットにある筈の財布が、無い。  剛之は上げかけた腰を椅子に下ろした。そして、空になったラーメン丼と餃子皿をボンヤリと眺めている風を装いながら、必死で記憶の糸を手繰った。何故だ?  そういえば、尻ポケットには穴が開いていた。そこから財布が落ちたか?剛之はそっと手を後ろに回して、ポケットの穴に這わせた。開いてはいるが、長財布が落ちるサイズではなかった。  では、掏られたか?地元で大学生をしていた時分の彼女に、「無防備過ぎない?」とよく注意されていた。無くなれば感覚で気付くからと聞く耳を持たなかったが、まさかまさかのことが起こったか?  剛之は二年以上前に別れた恋人との記憶まで遡ってから、今度は直近の出来事を振り返った。そういえば、家から出る際に財布をポケットに入れた記憶がない。  とりあえず財布の在り処については一旦保留にし、剛之は財布よりも硬い感触を全身のポケットに探した。剛之は携帯を携帯しない癖がある。期待はしていなかったが、その日もスマートフォンを持ち歩いてはいなかった。  剛之は目を閉じ顎の下で手を組んだ。このままでは、無銭飲食だ。これまで、万引きもカツアゲも屋外での立ちションもしたことがない。信号無視まで言及されては別だが、いちおう一般的な範囲で清廉潔白の身だったというのに、思わぬ展開であった。  もし、剛之がこのラーメン屋の常連であれば、まだ交渉のしようもあったが、残念ながら、この店は今日が二回目。それも、二週間以上の間を開けての来店だ。  店に何らかの貴重品を預けた上で、家まで財布を取りに行かせてもらおうかとも思ったが、剛之はこの時、貴重品など何一つ持っていなかった。大学時代、バイトで稼いだ金で友人が高級ブランドの腕時計を買ったのを知り、その友人を散々馬鹿にしてやったことがあったが、そうか、こういった時の為の正しい買い物であったかと、過去に浴びせた嘲笑を反省した。 「どうしました?」  そう話しかけてきたのは店員、ではなく、隣のカウンター席に座っていた男だった。年頃は、ちょうど剛之と同じか少し下くらいの、上はパーカー、下はデニムパンツの、よく見る感じの学生風の青年だった。 「あっ、いえ。べつに、なにも」  剛之が目を逸らして残り少ないコップの水を飲んでも、青年の方は目を逸らさなかった。平静を装っていたつもりだったが、隣席の彼にはもしかして、ずっと不審に見えていた?ならばいっそと、剛之は一か八かで言ってみた。 「あの、お金を貸していただけませんか?」 「はい?」 「いや、財布を忘れたまま、気が付かないで食べてしまったらしくて…」 「ああ。無銭飲食」  おもわず青年の口を顎ごと掴んで塞ぎたくなったが、幸い店内では調理器具の金属音が鳴り響き、隣席の剛之以外に彼の言葉は誰の耳にも届かなかったようだった。 「そんなつもりはっ…」 「店に相談してみればいいんじゃないですか?上手くいけば待ってもらえる なり、皿洗いで済むなりするかもですよ。上手くいけば」 「大丈夫ですかね?」 「さぁ?ここ、チェーン店だし。通報されるかもしれないですね」 「……」  なにか、凄く無駄な会話をした気がした。 「貸しましょうか?」 「はいっ?」 「お金」 「…いいんですか?」  なんだ、いい奴じゃないか。 「倍にして返してくれるなら」  あ、碌でなしだ。 「倍、ですか?…利子にしては、ちょっと…」 「そうですか?じゃ、貸すのは無しで」  剛之はコンマ数秒で考えた。ラーメン餃子セット、千円。二倍で二千円。倍であってもたった千円で、前科がつかずに済むのだ。 「いやいや、待ってください。そのっ…返します!倍で!」 「でも、倍ですよ?」 「いいですよ、倍で!」 「そうですか。じゃあ、お会計お願いしまーす」  青年もちょうど食べ終わったところだったらしく、彼は店員を呼びつつリュックを背負い立ち上がるとレジ前に移動し、そこで黒い財布を取り出した。黒い、見覚えのある…。 「それ…俺の…」 「あ、これ?さっき店の前で拾ったんだけど」  青年は涼しい顔で当然のことのように財布から千円札二枚を出し、店員に渡した。 「いや、待てよっ!拾った財布から払うのかよっ?!」 「いま自分の財布、鞄の底の方に入れちゃってるから。あとで返しとくよ」 「だから、俺のだよ!返せよ!」 「落ち着いて。ここじゃ迷惑だから」  すっかり熱くなってしまっている剛之とは対照的に、落ち着いた様子の青年はレジの店員に愛想笑いを残しつつ、剛之を店の外へと促した。  青年は、店の外の入口横に移動すると、剛之に訊いてきた。 「本当に、おにいさんのなの?」 「そうだよ!」 「証拠は?」 「証拠、…証拠はぁ…カードの名前、ウンノ タケユキ!」  青年は一番取り出しやすい場所にセットされていた銀行のカードをつまんで表面の文字を確認すると、カードを財布に戻し、いま拾ったばかりの財布を渡すかのように剛之の財布を剛之に渡した。 「はい。これからは、落とさない様に気を付けて」 「二千円!返してくれてない!」 「え?借りたのは、そっちでしょ?」 「はぁ?」 「だから、オレから二千円借りたのは、おにいさんの方でしょ?」  翌日、始業前の職場で先輩社員に前日のラーメン屋での出来事を話すと、わかりやすい同情もなく、「それはまた、変なのに引っ掛かったなぁ」と笑われた。 「本当に落としたのか、それとも掏られたのか。どっちだったんでしょう?」  剛之は一晩寝た後も、全く腑に落ちなかった。 「さぁ?どっちにしろ、丸ごと盗られなかっただけ、親切だったんじゃない?」  そうとは、剛之も思った。しかし、どうも青年の惚けた態度が気に喰わず、素直に感謝しようという気にはなれなかった。 「千円、おべんきょう代だったってことですかね?ああっ!都会って、怖い!」  剛之がやけくそになって叫ぶと、先輩は「お前が住んでるらへん、都会ではないな」と、突っ込みを入れてきた。
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