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「ないわね」
「ないですね」
覗き込んでいるのは小さな金庫。どう見ても、何度見ても、その中身は空である。
俺がばあちゃんの家に出入りするようになったのは一ヶ月前のこと。バスで席を譲るといたく感激され、よかったらお茶でもどうと招待を受けたのだ。もしよかったらいつでもお茶を飲みに来ていいのよ、遊びに来ていいのよ、私のことは「ばあちゃん」って呼んでいいのよ、などなど提案され、拒否するのも心苦しく週に何回かは顔を出していた。ばあちゃんは一人暮らしだった。
この調子だと多分他にも呼んでいるな、と思っていたら案の定で、二回目に行った時に先客を紹介された。俺がばあちゃんと知り合う二週間ほど前に、電車でばあちゃんに席を譲ったら招待されたらしい。ばあちゃんは七十を過ぎているはずだがなかなかの行動派である。先客は少し背が低めの女性で、「会社員」としか名乗らなかったので便宜上「先輩」と呼んでいる。
さて、そんな調子でお茶をいただいたり世間話をしたりしつつ、おおらかなばあちゃんに癒されていたわけなのだが、そうものんびりできなくなってきた。無茶苦茶なシフトに抗議したらバイトをクビになってしまい、家賃やら何やらの支払いが少々危ない。実家も余裕がなさそうなので今以上の仕送りは望めない。早く次のバイトを探さなければならないが時間がない。
焦っているところに、先輩が声をかけてきた。
いわく、先輩もセクハラだかパワハラだかを受けて辞表を叩きつけてきたのでめでたく無職になった。
いわく、ばあちゃんの部屋の床下に、金庫が隠してある。
いわく、自分はそれをばあちゃんが開けるのを見たことがある。
いわく――その中には、封筒に入った札束があった。
明らかに犯罪だしばあちゃんに悪いが背に腹は代えられない、でも流石に全部盗んでしまうのはすぐにばれそうだしばあちゃんの今後の人生を思うとできない、そんなわけでここはちょっと五万円くらい拝借できないかな――そう考えた結果、ばあちゃんが趣味の短歌サークルへ行っている間に二人で金庫を探し当て、先輩が覚えていた番号で解錠に成功し、いざご開帳……したところで話は冒頭に戻る。
「どこかに移し替えたのかしら。それとも銀行かしら」
「その可能性もありますよね」
「他の可能性は?」
「たとえば――先に誰かが全部盗んでしまった」
先輩は眉間に皺を寄せた。
「ありえなくはないわよね。私達みたいに家に呼ばれている奴が他にもいるかもしれないし。というかいそうだし。その中に、私みたいにばあちゃんが金庫開けるところ見た奴がいるかもしれないし」
「ばあちゃん、不用心ですもんね。『田舎だから大丈夫』とは言ってますけど」
「私達みたいな胡乱な輩に留守番任せるものね。だから私達もこうやって金庫を開けられているわけだけど」
一瞬顔を曇らせた後、何事もなかったかのように先輩は辺りを見回す。
「で、誰かが盗みに入った感じの形跡とかなかった? ばあちゃんのサンダルが揃ってなかったとか」
「どうでしょう……多少乱れていたとしても無意識のうちに揃えてしまっていたかもしれません……」
「育ちがいい……」
「それに、金庫の場所がわかっていたのなら別に部屋は荒らさないでしょうし」
「そうなのよね……」
俺も軽く室内を見渡してみる。昔ながらの瓦屋根の一軒家。ばあちゃん以外には誰も住んでいない家。
「……先に誰かが盗んでしまっていたとしたら。もしかして、発覚した時に俺達が疑われますかね」
「お金も手に入らず犯人扱いされるって、正直面白過ぎると思うのよね」
「一生笑い者になりそうですね」
「嫌よね」
「嫌ですね」
溜息をついて、先輩はとりあえず金庫を閉めた。一応指紋が残らないよう手袋はしている。
「万が一、盗みに入った奴がこの家のどこかに潜んでたらどうする?」
「武器になりそうな物持ってきてないですもんね。ばあちゃんと鉢合わせて慌てて怪我させても嫌でしたし」
「推理小説とかドラマだとうっかり刺したりしがちだものね。口封じとかね。流石にそれは嫌よね」
「嫌ですよね」
また溜息をついて、先輩は一応床下の他の場所を確認する。特に何も見つからなかったので、剥がした畳を協力して元通りにする。傍目には金庫破りを試みた痕跡は見つからない。
「どうする? 他の場所探してみる?」
「……また他の可能性、なんですけど」
「何?」
「ばあちゃんが、俺達をからかっている……あるいは、試している、とか」
先輩は返事をしなかった。また眉間に皺が寄っていた。
可能性は――ないわけではない。
俺達に留守番を任せて外出したのは、わざとなのではないだろうか。そもそも、いくら金庫の中身を確認したくなったとしても、それをわざわざ客人がいる時にするだろうか。金庫の中身は、本当に現金だったのだろうか。札束に見せかけた紙の束だったりしないだろうか。今日のことを見越して、敢えて金庫を空にしておいたのではないだろうか。
そんな可能性は――いくらでも考えられるのだ。
先輩はしばらく天井を眺めていたが、やがて本日何度目かの溜息をついて手袋を外した。
「やめましょうか、もう」
「……そうですね」
家中を探し回ったところで見つからない気がしてきたし――見つけたところで、ばあちゃんの顔がちらついて頭から離れない気もしてきた。ばあちゃんの掌の上で踊っているような、そんな気も。
それに――ついつい思い切ってしまったが、俺も先輩も、多分こういうことには向いていないのだ。
「これ、何の罪になるのかしら? 窃盗未遂とかってある?」
「不法侵入……は、呼ばれてお邪魔しているのでなさそうですけど」
「一応出頭する? 何も盗んでないから追い返されるかしら」
「『警察も忙しいんだ』とか言われますかね」
そうこうしている間にばあちゃんの帰宅予定時刻が迫る。本来は抜き取ったお金を隠し持って、何食わぬ顔でばあちゃんを出迎え、そのまま家を出る予定だった。今となっては滑稽な計画だ。どうしようもないので、とりあえずばあちゃんが一服できるようお茶を用意しておくことにした。先輩も文句を言わずお茶菓子を並べていた。勝手知ったるものである。
一人暮らしの家。独りの家。ばあちゃん、寂しかったのかな。ふとそんなことを思ったが、声に出すのは何となくやめておいた。
「ただいま。留守番ありがとうね」
「おかえり、ばあちゃん」
「おかえりなさい」
短歌サークルから帰ってきたばあちゃんは、淹れたてのお茶とお茶菓子を見て「まあ、ありがとうね」と相好を崩した。俺達は何食わぬ顔をしている。しているつもりだ。ただちょっと、予定と違って懐にお金がないだけで。
それでもばあちゃんは、俺達の顔を順に眺めて、にこにこしながら言うのだ。
「何か、困っているのかい?」
思わず先輩の方を見た。先輩も俺を見ていた。目が合って、そして――二人で溜息。
「困ってますけど……もうちょっと、頑張ってみますよ。とりあえず日払いのバイトを探します」
「そうね、私も探そうかな」
頼んだら、ばあちゃんは少しくらいならお金を貸してくれるかもしれないが――それは、最後の手段だ。
俺達の返事を聞いて、ばあちゃんは「そうかい、そうかい」と目元の皺を深くして笑った。
「でもばあちゃんは防犯しっかりしておいた方がいいと思う」
「そうね。警報装置とか検討しましょうね」
「あらあら」
何だかそれが最優先な気がしてきたので、三人で話し合うことにした。それから――ばあちゃんに、今日のことを謝ろう。先輩も反対はしないと思うが、一応確認してから。ばあちゃんに笑い飛ばされるかもしれないし、笑い話にはならないかもしれない。それでもけじめはつけておきたいし――また、この家に来たかった。
また来ることが許されるなら、次は俺もお茶菓子を持ってこようかなと、そう思うのだった。
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