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変わらぬ想い
8年後。
「Lick」は、「真珠」と名を変えたが、同じ場所で営業していた。ミックスバーに形態をを変えて、今では若い女性客も多い。
ダンサーのショーなどの催しもあり、雰囲気は「Lick」の頃とは大きく変わったものの、未だに足を運び続ける常連客も多かった。
弘海は、今日も出会いの場でもある店を、いつも通りの時間に開けた。
雨が降る夜だった。気温も湿度も高い。
シンクで水を切った白い花束を、花瓶に活ける。強い花の香りが店に充満した。
と、カラン、とドアベルが鳴り、今夜最初の客が入って来た。
早速ボーイのひとりがいらっしゃあい、と裏返った声で出迎えた。
まとわりつくボーイに、ごめん、と言ってその客は、まっすぐカウンターへ歩いてきた。
グラスを磨いていた弘海は、近づいてきた客の気配に、顔を上げた。
「いらっしゃ・・・」
口の端から、吸いかけの煙草が落ちた。シンクに落ちて、ジュッと音をたてた。
「ちか・・し・・・?」
そこには品の良い三つ揃いのスーツを着たビジネスマンの姿で、史が立っていた。瞳の色、唇の形、柔らかな髪。弘海が誰よりも知っている史が、8年の年月を経て、そこにいた。
初めて出会った時もスーツ姿だったが、それよりもひとまわり大人びて、その顔には仕事の出来る男の凛々しさが見えた。
史は、戸惑いを含んだ声を絞り出した。
「弘海・・・」
弘海と史は、お互いの名前を呼んだまま、しばらく立ち尽くした。
二人の瞳には、懐かしさと気恥ずかしさが入り混じっていた。
「ごめん、急に・・・」
「・・・いいわよ。何飲む?」
弘海は、史の注文した水割りをどうやって作ったのかわからないまま、テーブルに乗せた。あれからずっと外せなかった左手のリングが、グラスにかちりと音を立て、はっとする。
史の左手の薬指は、影になっていて見えなかった。
自分を落ち着かせるように、弘海は新しい煙草に火を付けた。
「スーツ、似合ってるじゃない」
「・・・そうかな」
「どう、仕事は」
「ちゃんとやってるよ。昇進試験に受かったばかりなんだ」
「そうなの?若いのにすごいじゃない。優秀ね」
「若くないよ。もう30になるし・・・」
「・・・そんなになるのね・・・あたしも歳をとるはずだわ」
史は水割りを一口飲み、グラスを持って下を向いたまま、言った。
「弘海は変わってないよ。久しぶりに会って・・・どきどきした」
弘海は煙草を持ったまま、史を見つめた。息が詰まり、言葉が出なかった。
平静を装って、弘海は答えた。
「・・・あんたもそんなこと言えるようになったのね」
「そうだね。少しは・・・大人になったかな」
二人は少し笑ったが、会話は途切れた。後ろで、常連らしい客が入って来て、ボーイたちが嬉しそうに迎えていた。
店内の騒がしさが止んだタイミングで、弘海が切り出した。
「何か・・・あったの。ここに来るなんて」
「・・・・・」
弘海は、どこかでその理由を分かっていた気がした。
史は、弘海の目を見た。そして低い声で、ぽつりと言った。
「・・・結婚する」
弘海は煙草の煙を、史にかからない角度に細く吐き出した。
「・・・そんな感じじゃないかって思ったわ」
「え・・・」
「良かったわね。どんな子なの?」
「・・・上司の・・娘」
史の結婚する予定の女性は、かつて史をスカウトした野瀬コーポレーションの長女だった。史を襲いかけた若社長の妹に当たる人物だった。
ヘッドハンティングされた後の史は、本来の能力を発揮し、あっという間に昇格したという。会長は自分で引き抜いた史をまるで息子のように可愛がり、自分の娘を結婚相手に薦めた。相手の女性は、史よりも七歳年上だという。
「馬鹿ね、どんなっていうのは、肩書きじゃなくて、性格とかそっちのこと聞いてんのよ」
「あ・・・そっか・・・」
はは、と軽く笑った史の瞳はどこか哀しげだった。
その子を愛してるの、と弘海は言おうとして、やめた。
少し間を置いて、弘海は尋ねた。
「・・・幸せになれそう?」
史は、グラスから顔を上げた。その瞳にわずかに抗議の色が滲む。
質問には答えず、史は弘海に聞き返した。
「弘海は・・・今、幸せ?」
「どうかしらねえ・・・」
「弘海」
「・・・なに」
「もし今、僕が弘海を・・・」
言いかけた史の言葉を、弘海はカウンターから身を乗り出し、唇を重ねて止めた。そっと唇を離して、弘海は切ない微笑みを見せた。
「弘海・・・」
「僕、なんていうのね」
「し・・仕事の時の癖で・・・」
「その方が似合うわ。俺、より」
「弘海、俺は・・・」
「幸せになんなさい」
史が何か言おうとしたが、ちょうどその時、数人の客が賑やかにドアベルを鳴らし入って来た。
いらっしゃい、と営業用の声を出した弘海に、史はもう何も言おうとしなかった。
史は水割りを半分以上残して、立ち上がった。
「じゃあ、行くね」
「そう。・・・ひどい雨だから、気を付けて」
「ありがとう。・・・弘海」
「なに?」
「また・・・来てもいい?」
「・・・夫婦喧嘩でもしたらね。愚痴ぐらい聞いてあげるわよ」
「・・・・うん」
史は、ブリーフケースを持って、歩き出した。
弘海はその背中を見ずに、改めて煙草に火を付けた。
くゆる煙と賑やかな客たちの間を縫って、史は入り口のドアを開けた。振り返った史と、弘海の視線が絡んだ。
その瞬間、弘海の脳裏に当時の「Lick」の裏口で、初めて史と会話を交わした光景が蘇った。
思えば、あの時から弘海は、史を愛していたのかもしれないと思った。
弘海の唇が薄く開いた。
店のBGMと喧噪の中、決して聞こえるはずのない弘海の声が、史だけに届いた。
史の表情が、哀しげに歪む。
雨の中、史は傘も開かずに走り出ていった。
「お前だけを、ずっと愛してる」
完
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