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近づく距離
史が弘海のアパートで暮らすようになってから10日あまり。
史は「Lick」のバイトと同時に昼間の仕事を探していたが、思うように見つからなかった。そのうちに、史は徐々に仕事を探すのに時間を割くことをしなくなっていった。
最初はそれにいちいち意見していた弘海も、次第にこの生活にとけ込む史を、黙って見守るようになった。
今日も穏やかな表情で手際よくドリンクを作る史に聞こえないように、理玖は弘海に耳打ちした。
「・・・なんだかさあ、すっかり板についちゃって。史、このまま続けられそうな雰囲気じゃない?」
「・・・それはだめだってば。あの子は・・・」
「はいはい、こっちの世界の人間じゃないって言うんでしょ?何回も聞いたわよ。だけど見てみなさいよ、ほら・・・」
丁寧にいくつものドリンクを作り、その合間にテーブルの水滴を拭きながら、客の会話に笑顔で相づちを打つ。
客として酒に溺れ、誰彼構わず誘いを受けて荒れまくっていた史とはまるで別人だった。時折客に酒を勧められることがあっても、今は潰れるような飲み方はしなくなっていた。
「あんたの側にいるのが、史にとっては安心なんじゃないの?」
理玖の言葉に、弘海はくわえかけた煙草を漫画のようにぽろりと落とした。無意識に、顔に血液が集まってくる。
「な、なに言って・・・」
「一緒に住んでんでしょ?あんたの家に」
「ただの居候よ!家がないって言うから・・・」
「まあ、あんた別れたばっかりで人肌恋しいだろうから、ちょうどいいんじゃなーい?」
「史とはヤってないって言ってんでしょうがっ!」
思わず出た大声に弘海自身が驚いた。そしてその直後、カウンターの史と目が合った。
回りの客達が、ひゅうっと口笛を吹いた。弘海は大急ぎで史から視線を逸らした。史がどんな顔をしているのか見もせずに。
「ママ、ちょっといい?」
その日の閉店後、史が理玖を呼び止めた。近くに弘海がいないのを確かめて、史は不安そうに口を開いた。
「弘海の・・ことなんだけど」
「ああ、さっきのこと?」
「・・・迷惑だって言ってた?俺のこと・・・」
「居候の件なら、全然気にしなくていいと思うわよ。弘海はああ見えて、面倒見のいいやつなの。それに、弘海はあんたが・・・」
「え?」
理玖がにやりと笑って史に顔を近づけた時、後ろからぬっと現れた黒い影がその肩を掴んだ。理玖はびくっと震えあがって、おそるおそる後ろを振り返った。
「理ぃ~~~玖ぅ~~~~~」
「あ・・・あら弘海、いたの?」
「あんたまた余計なことを・・・・」
「ま、まだ何も言ってないわよ?はいはい、店閉めまーす!」
理玖に追い出されるように弘海と史は外に出た。いつもの白んだ空を見上げた弘海は、上を見たまま、まだ不安気な史に向かって言った。
「明日」
「・・・明日?」
「買い物行くわよ。あんた、あたしのシャンプーだのトリートメントだの歯磨き粉だの、遠慮なく使うから・・・徳用のデカいやつ買わないと足りなくなってきちゃったじゃない」
「・・・すみません・・・」
「あと、ずっとあたしのボロいTシャツ着てないで・・・部屋着とかパジャマとか、買えば?・・・どうせしばらくいるんだから」
「えっ・・・」
史は、立ち止まった。少し先を歩いていた弘海が、顔だけ振り向いた。
「他にも必要なものあったら、ちゃんと言えよ。車出すから」
「いても・・いいの・・・?」
「わざわざ聞くな」
前を向いて歩き出した弘海に、後ろから何かがどすんとぶつかってきた。背中から巻き付いてきた史の腕に、弘海はうろたえた。
史は弘海のウエストをぎゅっと抱きしめていた。
「弘海・・・」
「お前なにしてんだっ!くすぐったいって!」
「ありがと・・・」
「・・・おう」
しばらくして歩きだした弘海の左手に、史はそっと指を絡めた。
中学生か、とつぶやいた弘海に、史は嬉しそうな笑顔を向けた。
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