仕事

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史が「Lick」で働き出して一ヶ月が経った頃、その出来事は起こった。 理玖は開店準備を進めながら、今日は貸し切りよ、と言った。 「貸し切り?」 「常連の飯田さんに頼まれてね。よく知らないけど、大きな会社の社長サンがいっぱい部下連れてくるんだって言ってたわ」 「ふーん・・・」 弘海は理玖と会話しながら、テーブルを拭く史の後ろ姿を見た。 史を抱いたあと、弘海の心配をよそに、二人の関係はずっとこのまま続いていくかのように穏やかだった。そして同時に、時折垣間見える危うさが、言葉では言い表せない色気となって、史を包み込んでいた。 「それでね、弘海。相談なんだけど・・・」 「え?」 弘海はカウンターを強く叩いて、どういうこと、と叫んだ。 「そんなに怒らなくてもいいでしょ」 「・・・だめよ。それは絶対だめ」 「たっての希望なのよ。名指しでね」 「だから史は、そういうことは・・・」 「弘海。これはもう、史にも承諾を得てるの」 「は?」 弘海は史を振り返った。史は、弘海と目が合うと、こくりとうなづいた。 ちょっと、と言って弘海は史の腕を取って裏口に連れ出した。 「どういうことだよ。ボーイやるって・・・」 「・・・自分で決めたんだ。いつまでも甘えてるわけにはいかないと思って」 「意味、分かって言ってんのか」 「分かってるよ。大丈夫。もう前のようなことにはならないから」 「なんでそこまでするんだよ!今のままでいいだろーが!」 「・・・弘海といたいからだよ」 「・・・何?」 史は、弘海の顔に触れた。指先の感触が、弘海をたじろがせた。 「ずっと一緒にいたいから、考えた。俺が・・・ちゃんと自分の足で立って、生きていかなきゃ。せっかく助けてもらったんだから」 「だからって、なんでボーイなんか・・・お前はそんなことしなくていいのに・・・」 「ちょうど今日のお客さん、俺が良いって言ってくれてるらしいし。困ったことがあっても、弘海がそばにいるから」 「・・・史・・俺は・・」 弘海は自分の頬に添えられた史の手を掴んだ。 「もう・・やなんだよ・・・お前が他の男に触れられるのが」 史は目を見開いた。覆い被さるように弘海は史を抱き寄せた。 「こんなおっさんが何言ってんだと思うだろ・・・」 「弘海・・・」 弘海の腕の中で、史は自分を抱きしめる男の顔を幸せそうに見上げた。 そしてそっと弘海にキスをして、言った。 「誰が何をしようと、俺は、弘海のものだよ」 「史・・・」 「誰に触れられても大丈夫。弘海がきれいにしてくれるから」 店の中から、理玖が弘海を呼ぶ声がした。 弘海は史から離れ、先に店の中に戻った。心音が早い。 息苦しさと愛おしさが、弘海の心の中でせめぎあっていた。 その日「Lick」にやってきた団体客は、野瀬コーポレーションという企業の役員と、その部下達だった。 賑やかなその客達の中の一人、伊坂という男は、店に入ってきた時から史をねっとりとした視線で見つめていた。 カウンターにグラスを持ってきた史に、弘海が小声で耳打ちした。 「指名したやつって、あの、隅に座ってるジジイか」 「うん、何回か一人で来たの覚えてる」 「気をつけろよ」 「うん、大丈夫。ちゃんとやるから」 史が新しいグラスを持ってテーブルに戻ると、早速その伊坂が自分の横に座るように手招きした。にっこり笑って、史はその席に腰を降ろした。 品のいい笑顔で接客する史を、自分も客に愛想を振りまきながら弘海は横目で見ていた。 弘海の思惑をなぞるように、伊坂は次第に史への距離を詰めていった。 時折顔を近づけ、太腿を撫でさする。酒がすすみ、伊坂は史にキスをした。同時にTシャツの下に手を差し込んで、胸をまさぐる。 ゲイバーのボーイは、自ら客にボディタッチをする者が多い。その逆もそう珍しいことではない。弘海は客の身体に触れながら、視界の端で伊坂に身体を預ける史から目が離せなかった。 史が席を立ち、トイレに向かう。少し遅れて伊坂がその後を追った。 弘海は思わず、客の手を振り払ってしまった。 「弘海ちゃん?」 「あ、ごめんなさーい、ちょっとお手洗い・・・」 弘海は、史と伊坂が消えたトイレに向かった。
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